学校生活

日々の生活の中で

【学校生活】職員作業

 8月20日(金)の午後、職員作業を行いました。

 作業内容は、物置と化した旧給食室内の不要物と、各教室等に置かれている大型テレビの搬出準備です。

 男性陣は大型テレビ、女性陣は旧給食室に分かれて作業を行いました。

 あっという間に1階階段下は物でいっぱいになっていきました。

 夏休み恒例の職員作業が終わると、いよいよ2学期の始まりも近いなあと、多くの先生方が感じていることと思います。

 

【学校生活】英語暗唱大会に向けて

 8月18日(水)、サマースクールの時間、ランチルームでは山鹿市英語暗唱大会に向けての練習を行っていました。

 ALTの先生にもご指導いただき、一生懸命練習に取り組んでいました。

 英語暗唱大会は、9月24日(金)に行われます。約1ヶ月後の大会に向けて、悔いなく練習してほしいと思います。

 

【学校生活】夏休み第Ⅲ期の学習

 8月18日(水)各学年の教室では、夏休みⅡ期の宿題提出と、Ⅲ期の宿題が配付されました。

 鹿北中ではお盆前をⅠ期、お盆前後をⅡ期、お盆後をⅢ期と分けて、計画的に宿題ができるようにしています。

 Ⅲ期の宿題をもらった各学年の生徒は、サマースクールの時間、さっそく宿題に取りかかっていました。

 過ぎてしまえば、「あっという間だったなあ!」と感じるのが夏休み。これは子どもも大人も一緒みたいです。

【学校生活】新型コロナウイルス感染対策徹底

 8月18日(水)、今日は朝から全校生徒が体育館に集まり新型コロナウイルス感染対策について、再度、気を引き締めて行っていくことを確認しました。

 熊本県でも感染拡大が続いており、たいへん危機的な状況となっています。

 学校でも感染対策を徹底することで、感染防止は当然として、万が一感染しても濃厚接触者を極力出さないようにする体制を整えていきます。

 ぜひ、各ご家庭でも感染対策を徹底されますようお願いいたします。

【学校生活】今日は全ての活動は中止です

 8月17日(火)、今日から夏休み第3期が始まることになっていましたが、先日からの大雨が続いていて、災害の危険性が高いため、すべての活動を中止としました。

 山鹿は1週間の雨量が1000ミリを越えていて、河川の氾濫や土砂災害gいつ起きてもおかしくない状況となっています。

 ちゅうちょなく早めの避難をお願いします。

【学校生活】76回目の終戦の日を迎えました

 8月15日(日)、先の不幸な対戦が終結してから、76回目の終戦の日を迎えました。

 この対戦で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、世界の恒久平和をご祈念いたします。

 そして、今生きていることに感謝の気持ちをもち、自他の命を尊重していくことを固く誓います。 

 鹿北中上空は久しぶりに青空が見られます。

 午前中のみとなりますが、半旗を掲揚し、哀悼の意を表します。

【学校生活】閉庁のお知らせ

 8月12日(木)・13日(金)の2日間、山鹿市内の小・中学校は閉庁となります。

 緊急に連絡を取る必要がある場合には、担任または学年主任まで連絡をお願いいたします。

 何卒、ご理解・ご協力をお願いいたします。

【学校生活】ようこそ先輩!

 8月10日(火)、午前、午後と卒業生が来校しました。

 午前中は、高校2年の女子生徒2名。中学校時代と変わらず、笑顔で楽しそうに話をしてくれました。

 部活動のことや勉強のこと、そして、中学生の時のことなど、丁度教員採用試験に向けて模擬授業を行っている時だったので、懐かしい先生との再会もありました。

 午後は、今年成人式を迎えた卒業生と今年高校を卒業した卒業生の兄弟が来校しました。

 兄は長崎の大学に通っていて、弟は広島の自動車工場に勤めているとのこと。それぞれの自分のやりたいことが見つかり、勉強や仕事に頑張っていることが伝わってきました。 

 夏休みは、こんな風に卒業生と再会できる楽しみがあります。

【学校生活】夏らしい光景

 8月10日(火)朝の克己タイム終了後、3年生が中庭の花壇の水やりをしていました。

 花壇にはとうもろこしが植えられていますが、ものすごい勢いで成長を続けており、今はもう生徒の身長よりかなり高くなっています。

 とうもろこしの向こう側に、笑顔で水やりをする生徒の姿が見えます。

 夏ならではの光景だと思いました。

【学校生活】平和への誓い ~被爆者代表~

 ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我(けが)を負いました。

 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似(みようみまね)で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫(がれき)で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善救護所へ戻ったりの繰り返しでした。1週間後、大怪我をした父を時津国民学校救護所でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。

 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後にお乳を飲ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。

 今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

 私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年(令和3年)8月9日

 被爆者代表  岡 信子