亀城ヶ丘だより
【新聞記事より】020714
7月12日(日)付けの熊本日日新聞より。
記事は「芦北町はしばらく厳しい状況が続くと思う。支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れずに前を向いて頑張っていきたい。」という平江さんの言葉で結ばれていました。
ラインをしたところ、お礼の言葉と「14日(火)の午後6時過ぎ、RKKテレビの「ゲッキン!」で、被災した店として生中継されるそうです。」との返信をいただきました。少しでも芦北の現状を伝えることができたらと話されていました。
【7月14日(火)の登校について】020713
今夜から、明日7月14日(火)の朝にかけて、大雨が予想されます。地盤が緩んでいますので、通学路に危険を感じた場合や大雨で登校が困難な場合は、命を守ることを最優先に、各ご家庭で登校の可否についてご判断ください。
大雨、大雪、台風などの自然災害発生時でも芦北町の全学校が一斉に休校とならない場合があります。そのような場合でもお住まいの地域によって被害状況は異なりますので、通学路に危険を感じた場合や、土砂崩れ、増水などで登校が困難な場合は、命を守ることを最優先に、各ご家庭で登校の可否についてご判断ください。
なお、登校できない、落ち着いた後に登校する、避難したなどの場合は、登校中の事故発生ではないことの確認のため、必ず学校までご連絡ください。
【学校再開】020713
昨日は、熊本県PTA連合会による佐敷小学校復旧のボランティア活動に参加いただきありがとうございました。私は土・日に次男が応援に来たので、後回しになっていた田浦の実家の作業を行いました。東海カーボン近くの災害ごみ置き場へ行く道はトラックが長く連なっていました。実家は車庫と倉庫が泥水に使ったままですが、今週も雨の予報で困っています。
湯の児から津奈木に出る道が復旧したので助かります。夕方、散歩がてら周辺を見て回りました。法面からまだたくさん水が出ています。段差があるところも見受けられます。
昼のニュースで大野小学校の学校再開が流れていました。渡邉校長先生と児童代表の大変な中での明るい声が届きました。
湯浦中も今日から学校が再開しました。豪雨災害への生徒の心のケアのため県教育委員会からスクールカウンセラーが派遣されましたので、1時間目は学級指導のあと生徒向けのお話を、2・3時間目は交代で職員向けの講話をお願いしました。残念ながら私は参加することができませんでした。昨夕、法面の水に気を取られ段差で足をひねりほんのちょっと骨折、先ほどからギプス生活です。片付けの役に立てません、申し訳ない。(H)
【昭和57(1982)年 田浦水害(後編)】020712
後編です。今回の雨量はこの時を超えています。今回の水害のこと、中学生の皆さんが親になったら必ず伝えてください。「とにかく早く、迷わず非難しなさい。」
当時の記録を読むと、田浦では11日から14日にかけて1時間雨量65mm、2時間雨量120mmと短時間に集中して降り、田浦川等、吉尾川等が氾濫して大きな被害が発生したとあります。
私は水俣にいたため、田浦水害のまさにその時の怖さは体験していません。聞くところによると、小学校の運動場横の土手が決壊し、大量の水が流れ込み運動場が見る見るプールのようになったそうです。低学年の子どもたちは怖くて泣きだしたそうです。
田浦中のある先生は当時保育園入園前だったそうですが、庭に水がどんどん入ってきた記憶があるそうです。お母さんは小学校からの電話連絡を受け、膝上まで水につかりながら、宮坂医院前の三差路に張ってあったロープを伝って、低学年のお姉さんを学校まで迎えに行かれたそうです。
私の父は学校からの電話を受け「学校が一番安全だけん、学校に残してください。」と言ったそうです。家庭も学校も判断が難しい状況だったと思います。
「天災は忘れた頃来る」物理学者で俳人の寺田寅彦氏がしばしば語ったという言葉があります。災害は語り伝えないと風化していきます。今日を「絶対はない」「想定外のことを想像する」と言うことを肝に銘じる日、防災について考える日にしています。(H)
【昭和57(1982)年 田浦水害(前編)】020711
今回のブログは、6月に準備し期日指定でアップを予定していたものです。まさか、あの時以上の豪雨被害に見舞われるとは思っていもいませんでした。佐敷中近くに住む私の息子たちも床上浸水、真夜中の避難中に危うくという場面がありました。息子には田浦水害の話はしたことがありましたが、まさか佐敷中校区がこのような豪雨水害に見舞われるとは思ってもみませんでした。後編の最後は寺田寅彦氏の「天災は忘れた頃来る」で結んでいますが、教訓よりも「まさか~だろう。」のバイアスが強く出てしまいました。こういう時期ですが、戒めのためあえて予定通りアップすることにしました。
私が高校2年生だった昭和57年7月12日(月)の昼前のこと、「田浦中出身の生徒は集まってください。」という放送が入りました。何かと思って指定された教室に行くと、「田浦が大変な大雨になっていて、帰すことができない。水俣の友達の家に泊まるように。」との説明がありました。「いつも通り朝6時過ぎの列車に乗って駅を出たのに、水俣もそんなに降ってはいないのに。急に泊まれと言われても困るのに。」情報源も今とは違いスマホもなく、私たち高校生には切迫感はありませんでした。
午前10時までの1時間の雨量は65mm、1日の雨量が328mm。不知火海の満潮とも重なって田浦川等が氾濫、肥後田浦駅周辺や小中学校周辺も家屋への浸水が続出したとのこと。テレビには駅前の被害の様子が映し出されました。
高校の隣にあった同じクラスの友達の家に、田浦中出身の3人で泊まらせてもらいました。テレビのニュースはずっと大雨関係ばかり。不安な夜を過ごしました。
翌朝、高校が借りたバスで田浦へと向かいました。国道3号線は渋滞、8時間近くかかって田浦に着きました。途中は泥道。船江付近では、甘夏ミカンの木が根が付いたままで海に浮かんでいました。色の変わった壁を見て、水の高さに驚きました。町中、泥の匂いがしました。あちこちに消毒のための石灰が巻かれていました。(H)