亀城ヶ丘だより
【大きく手を広げて】030313
修了証には「本校第3学年の課程を修了したことを証する」と書かれています。ところで「シュウリョウ」を漢字で書けますか。「終わり」ではなく「修める」という漢字ですね。これは単に中学校生活が終わったのではなく、「学問などを身につけた」、「普段の行いを正しくすることができた」、ということを意味します。卒業式での3年生の姿が「修了」の証明になります。
家族、地域の皆さん、先生方に支えられ、守られ過ごした9年間の義務教育が今月31日をもって終わ ります。
高校の入学式では、校長先生から「入学を許可する。」という言葉が発せられます。4月1日が来ればみんながなれるのが小中学生、「許可された」者だけがなれるのが高校生。短い言葉の重さを噛みしめて、その後70年間続く社会に出るための「一歩手前の3年間」を有意義なものにしてほしいと願っています。
最後に、人をそしりあざけることを「指をさす」と言います。では指をさしてみてください。3本の指は鋭く自分に向かっています。
人を受け入れる時には大きく手を広げます。全ての指は温かく相手に向かいます。(見せるのは手のひら、表側ですよ。裏を見せると「うらめしや」になってしまいます。)
いつまでも湯浦中の卒業生らしく、人を大切に。いつも大きく手を広げた皆さんであってください。
では明日の卒業式を楽しみにしています。
【3学期とこれまでを振り返って】030312
3年修了式代表 M.M.さん
3学期の抱負で、T君が、残り3ヶ月を大切に過ごしたいと発表していました。でも、その時は受験や卒業するといった実感は全くありませんでした。
私立を受験する人たちの姿を見て、少しずつ受験というものを実感するようになりました。そして、自分たちの番が迫ってきて、みんな必死になって、面接では、質問事項に対する答えを考え、覚えて、たくさんの先生方に何度も面接の練習をお願いし、見てもらいました。勉強でわからないところも、昼休みや放課後に先生や友達に聞き教えてもらいました。みんな、これまでの人生の中で一番というほどに努力をしたと思います。この取組を通して、短い期間でも、本気になって取り組めば力がつくということをみんなが実感できたと思います。また、準備をして練習することで自信がつき安心できることも学びました。
3学期は、このように進路実現の取り組みで終わったような気がします。公立後期を受検した人は、おとといようやく受検から解放されました。そして、みんなで卒業に向けて思い出を作ろうと思っていたら、もう明後日は卒業式です。やっと、昨日くらいから3学期はあっという間だなと感じています。振り返ってみると、楽しいこと、大変だったこと色々あったけど、とても充実した一年であり、3年間でした。
今、このような気持ちでいられるのも、私たちを支えてくれた人たちがいたからこそだと思います。この場を借りて、感謝の気持ちを伝えます。
まず、今まで関わってくださった先生方、ありがとうございました。私たちは、先生方にたくさん迷惑をかけました。特に、授業中の私語。普段は怒らない先生でさえも怒らせてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。それなのに、私たちのことを見捨てずに見守っていただきありがとうございました。時には厳しく、時には優しく導いてくださったおかげで、私たちは成長することができました。これからは、みんな高校生となりさまざまなことに直面すると思いますが、先生方から教わったことを思い出しながら頑張っていきます。
次に、湯浦中学校、ありがとうございました。私たちはこの校舎で3年間、中学校生活を送ってきました。ガラスを割ったり、走り回ったり、机に落書きをするなど、たくさん迷惑をかけました。でも、文句ひとつ言わず、私たちの学習だけでなく安全を守ってくれました。先日、校舎に感謝の気持ちを込めてみんなで掃除や片付けをしました。3年間いたのに、知らない部屋があったり、たくさんのものがあったり、結構汚れていたことに驚きました。でも、作業が終わってきれいでスッキリした状態になり、学校のためになることができて良かったと思いました。たくさんの思い出をつくらせてもらった校舎にも感謝です。3年間お世話になりました。
最後に3年生の皆さん、長い人は小学校から一緒でした。このクラスで色々な思い出ができました。特に行事では、みんなで協力し、最高のものを作り上げることができました。今年度は、コロナの影響で行事などが変更されましたが、それも乗り越えてこのクラスで取り組んだことは忘れません。ありがとうございました。
これから、私たちは、卒業しそれぞれの進路を歩んでいきます。みんなとお別れになりますが、またこのメンバーで大人になって会える日を楽しみにしています。
【東日本大震災】030311
平成23年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。震災による死者・行方不明者は1万8428人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4893戸が公式に確認されています。日本国内で自然災害により1万人を越える死者・行方不明者が出たのは、戦後初めて(明治以降でも関東大震災、明治三陸地震に次ぐ規模)です。
平成23年、当時の宮本勝彬水俣市長は、公式確認から55年を迎える水俣病の経験を踏まえて、水俣病被害者や水俣市民が差別や偏見を受け、風評被害による様々な影響があったこと、原発事故で起こっている問題は、水俣病と重なる部分が極めて多いことなど、震災による原子力発電所の事故を受け、避難者への差別や偏見をやめるよう呼び掛ける緊急メッセージを市のホームページに掲載されました。
震災後、福島県出身の水俣一中の保護者の思いがきっかけとなって、福島県と水俣市の中学生の交流事業が始まり、数年に渡って継続されました。
私は、平成25年11月に福島県で開かれた事前学習会に水俣市の教頭を代表して参加し、福島県の中学生に水俣二中の環境教育の取組について講話を行いました。
前日に仙台空港に着きました。タクシーの運転手さんは「私は、今は他県からのお客さんに語ることで、やっと心を落ち着かせることができている。」と話されていました。
閖上浜に着くと、他県在住の閖上地域出身の方に出会いました。やっとここに来る決意をしたそうです。「自分が知っている風景が何もない。」と涙を流されていました。
帰熊の日は楽天イーグルス初優勝パレードでした。前日の懇親会で福島県のPTA役員さんは、スポーツが元気をくれるということを強く語られていました。(H)
【卒業アルバム配付】030311
昨日、入試を終えてみんなほっとした表情です。お待ちかねの卒業アルバムが届きました。学校生活を懐かしんだり、互いにメッセージを書いたり、楽しく過ごしました。各家庭には明日持ち帰ります。
各先生方にお礼のあいさつをして回りました。校長室でパチリ!
【新生徒会始動】030310
後期選抜2日目、社会・数学の学力検査が終わりました。16日の合格発表で全員の笑顔が見られますように。写真は12月の生徒会リーダー研修と2月に行った新メンバーで最初の行事(人権集会)の様子です。やりたいことがたくさんあったのに、コロナ禍によりいろいろなことが制限されるとはこの頃は思ってもいませんでした。あれから1年が過ぎました。いよいよ4日後には思いを後輩に託し、湯浦中を卒業します。
【修学旅行】030309
後期選抜の1日目、国語・理科・英語が終わりました。朝の集合時は非常に緊張した面持ちでしたが、リラックスして受検できたでしょうか?
12月の修学旅行では、火災に見舞われた首里城再建のための募金を届けました。その時の様子です。
【花植え・美術・社会授業】030308
明日は後期選抜、受検生は緊張感をもって最後の1日を過ごしています。2年生の頃の美術と社会の授業風景です。明日は3年間の授業を思い出しながら、力を出し切ってください。
【2年生始業式・給食】030307
2年生になって最初の集合写真です。早いもので、来週の今日は卒業式ですね。5月の給食の様子もパチリ、このころは向かい合っての給食が当たり前でしたね。
【PTA行事・美術の授業】030306
1年生のPTA行事、竹細工を作りました。全集中、風車の呼吸。普段から美術の授業で鍛えられた成果を発揮できたでしょうか。
【メッセージボード】030305
芦北町のPTA連合会で、豪雨災害で大きな被害を受けた佐敷小学校を励ますメッセージを贈ろうという取り組みがされました。湯浦中は生徒全員が卵(模型)に「命」をテーマにした絵を描き、メッセージボードを作成しました。先ほど本校PTA会長にお渡ししました。
【文化祭準備】030305
文化祭の取組中。「カラフル」という劇を発表しました。先日、テレビを見ていたところ原作の本が紹介されていました。偶然に驚きました。さてIくんはどんな役だったでしょう?
【赤ちゃんふれあい体験・研究授業・写生大会】030304
赤ちゃんふれあい体験学習、芦北水俣の英語の先生が集まっての研究授業、写生大会の様子です。すでに芦北弁はペラペラのバイリンガルです。英語もマスターしてトリリンガルを目指します。
【集団宿泊・体育大会】030303
1年生の5月、集団宿泊教室で芦北青少年の家に行きました。体育大会では先輩たちに励まされ、最後まで頑張りぬきました。
【入学式・授業参観】030302
湯浦中学校入学から3年が経ちました。卒業式まで2週間、3年生の入学からの歩みを写真で振り返ります。まずは緊張の面持ちの入学式と授業参観の様子です。
【卒業おめでとう】030301
3月は「去る」。今日は高校3年生が学校を去る日です。残念ながら、昨年に続き卒業式に臨席することはできませんでした。令和6年の成人式で再会できると嬉しいですね。
放課後に芦北高校を卒業した先輩があいさつに来てくれました。野球部キャプテンや生徒会会長としても活躍、夏の大会後は公務員試験に向けて、学校で9時、10時まで勉強する学校生活だったそうです。「自分も中学生の頃はそう考えていましたが、芦北高校の林業科に進学しただけで公務員試験に合格するのではなく、3年間の努力が大切でした。」ということを後輩に伝えていきました。中学生だった頃からいらっしゃるS先生、N先生とパチリ。4月からは芦北町役場勤務です。
【授業参観・学級懇談会】030228
26日(金)の今年度最後の授業参観・学級懇談会には多数の保護者の皆様にご来校いただきありがとうございました。
生徒会室を覗いて帰られた方もいらっしゃいました。そうです、これがテレビで紹介された「ニシキヘビ」と「オオトカゲ」の皮、「ダチョウの卵」の3点セットです。爬虫類が苦手な方もいらっしゃいますので画像は閲覧注意です。見たい方のみクリックしてください。IMG_4674.JPG IMG_4675.JPG
【白い蜘蛛】030227
立志式の話の続きです。
アウトドア用品の総合メーカー、株式会社モンベルの代表取締役会長 辰野勇(たつの いさむ)さんは16歳の時に、最後に1800mの垂直の壁が待っているアイガーという山の北壁に初登頂したハインリッヒ・ハラーの体験記『白い蜘蛛』を国語の教科書で読み、感動して、
①10年後の26歳でアイガー北壁に登ること
②28歳で山にかかわるビジネスを始めること という目標を立てました。
まさに志を立てた瞬間です。そして、何を始めたか。
筋トレ、ランニング、登山の練習などに取り組むと言うのが普通の発想だと思いますが、辰野さんは登山にはお金が必要だということで「アイガー北壁」と書いた貯金箱をつくったそうです。夢に終わらせない、具体的な取組を始めたわけです。
そして5年後、予定よりも早く、最年少記録の21歳でアイガー北壁登頂に成功しました。
登山中はあまりの過酷さに、二度と山には登らないと思ったそうですが、山頂からマッターホルンが見えた瞬間に、次はあの山だと決意したそうです。
立志式を決意の日、具体的な目標、期限を決め動き出す日にしましょう。皆さんの挑戦に期待し、応援しています。
【立志式】030226
2年生は立志式を行いました。
事前学習で学んでいるとは思いますが、立志式は、武士社会で数え12~16歳の立春の日に行われていた元服式がもとになっています。元は頭(首)、服は着用するを表し、頭に冠をつける式でした。この日を境に、髪型、衣服を大人のものに替えて、社会から一人前の大人として認められました。
また、当時は大人になると言うことは、戦に行くことができると言うことであり、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の息子、主税は12月に元服し、メンバーに加わり、16歳で切腹しています。まさに、元服式は覚悟を決める式であったと考えることができます。
現代においても、法的には13歳までは刑事責任年齢に達していないため、刑罰は受けませんが、14歳からは刑事処分が可能な年齢となり、社会的責任は一層重くなります。
西郷隆盛が尊敬した幕末の志士『橋本左内』は、皆さんと同じ年齢の頃、『啓発録』という書物に、「自分は何をしてもおろそかで、注意が行き届かず、弱々しくてぬるい性格であるため、いくら勉強しても進歩がない。これではとても父母の思いに応え、藩や主君のお役に立ち、祖先の名を輝かすような人間になれるはずもない。一体自分はどうしてこんなに駄目なんだろう。そう思うと情けなくてたまらず、毎晩涙で布団を濡らした・・・」
果たして自分には覚悟があるか。
そして左内は、〇稚心を去る 〇気を振う 〇志を立てる 〇学問に勉める 〇交友を択(えら)ぶ という決意をしています。
※明日に続きます。
【人権集会】030225
リモートで人権集会を行いました。私からはネイティブアメリカンの教えという短い話をしました。
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だから、いつかあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい。」
どんな生き方をすればよいか。人権と重ねて考えてくれると嬉しいです。
【一生分】030223
子どもは小さいころに一生分の親孝行をするといいます。
私が人吉二中に勤務していた27歳の時に長男が、30歳の時に次男が生まれました。8ヶ月くらいで保育園に通わせることになりましたが、二中の近くに保育園がありましたので、送り迎えは主に私の役目でした。また、妻は土・日が勤務の仕事でしたので、金曜日の部活動が終わった後、私が息子たちを田浦に預けに行き、土・日は田浦から部活に通い、日曜の午後に迎えに行くという生活、今の言葉で言うならブラック部活です。
人吉三中に異動してから、妻の転勤が急に決まりました。最初は妻と2人の息子は水俣に引っ越しました。私は単身赴任の予定だったのですが、毎晩9時頃に当時5歳の長男から「おとうさん、なんでかえってきないの。」の電話。「わかった、今から帰るよ。」と水俣に向かう生活が続きました。帰宅した頃には、5歳と2歳の息子は熟睡していました。
そこで、私も5月から水俣に引っ越し、片道70分の道を通うことにしました。毎朝5時半に出発する私を長男は早起きをして必ず見送ってくれていました。
二生分、三生分の親孝行をしてもらいました。
中学生になると「あーいた、いっちょん言うこつばきかん、はがいかよ。」となることもあるでしょう。もう親孝行は済んどるけんしょんなかっです。(H)