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【秘密の部屋】020331
子どもの頃の土曜日は「まんが日本昔ばなし」、「8時だよ全員集合」、「Gメン75」、「桃太郎侍」とチャンネルはそのままでした。昨日は志村けんさん死去のニュースに衝撃を受けました。ご冥福をお祈りいたします。
田浦中勤務も残り数時間、教頭先生との打ち合わせを終え、校長室の片付けを済ませました。田中校長先生の横に写真(爽やかに微笑んでいるはずです。)も掛けました。後はこの原稿をアップしたら業務完了です。
人吉二中から人吉三中へ転勤した年の4月末、妻が水俣に転勤することになりました。そこで湯の児に移り住み、なんやかんやで人吉三中まで片道70分の通勤をすることにしました。突然の転園に5歳の長男は「俺の友達は水俣にはいない。人吉にいる。」と悲しんでいました。すぐに慣れましたけど。
人吉では人吉一中のすぐそばに住んでいました。幽霊の掛け軸で有名な永国寺付近です。長男が保育園児の頃、帰宅後に必ずしていたのは、全てのポケットをひっくり返し、ダンゴムシが入っていないかチェックすることでした。人吉一中の正門の並木からセミを大量に捕まえてきて、家の中で放したこともありました。
妻は土・日は仕事でしたので、子どもと3人で近くの温泉に行くこともよくありました。帰りにローソンでアイスを買って帰るのが子どもたちの楽しみでした。
4月から長男が人吉一中に赴任することが決まりました。私がお世話になった社会科のI先生も人吉二中から赴任されるという話を聞きました。縁です。またポケットにダンゴムシを入れたまま洗濯機を回したり、セミを大量に捕まえたりしたりしないか…。楽しみです。
長男は3月に入籍したのですが、奥さんは長男が今月末まで勤務するS中に転勤が決まりました。まさかの縁です。
3連休に2人で家を探し回りましたがなかなか見つかりませんでした。3日目にやっと見つけた家の家主さんは以前からお世話になっている方でした。これまた縁です。
世の中はどうつながっているかわかりません。私の母の口癖は「人にはようせんば。」その時その時の縁を大切にしたいですね。私もさっそく、高校の先輩であるM湯浦郵便局長に電話を掛けました。湯浦中ではどんな縁が待っているか楽しみです。
ではそろそろ「秘密の部屋」を閉じます。ご愛読ありがとうございました。(H)
※パーセルタングで「開け!」と言うと、「秘密の部屋」の扉は開きます…。たぶん。
【振り返って】020330
管理職は1年目に異動しても不思議ではないので、教頭になってからは毎年2月頃から次年度準備や引き継ぎ資料の作成を行うようにしています。平成29年度は田浦中勤務3年目でしたので、まず間違いないだろうと3月中頃までには準備を終えていました。
どこの学校に異動するのだろうと考えていたら、田中校長先生から「おめでとうございます。田浦中学校25代校長です。」という内示を受けました。驚きました。
当時1年生だったMさんが、間違えたらいけないからと「校長先生」と呼ぶ練習を春休みにしていたことを思い出します。4月1日になり、「校長先生」という声かけが随分ありました。練習したので呼びたかったようです。反応が遅れることしばしば。先生方からは時々「教頭先生」の呼びかけ。逆に、先生方が森教頭先生への「教頭先生」には私がすばやく反応していました。
学校経営目標は田中校長先生の思いを引き継ぎ、平成30年度は「潤いと輝きのある学校」、平成31年度(令和元年度)は表現を少し、内容は大きく前進させた「潤いと輝きにあふれる学校」としました。
教頭の時、松本校長先生からご指導を受けた「田浦小・中の9年間で生徒を育てる。」という方針も学校経営の柱にしました。
「職員と生徒が両輪となって学校を創る」という意識が生徒会執行部に浸透したこと、学校教育目標をほぼすべての生徒が言えるようになったことが良かった点です。(H)
【トミカ】020329
生徒には知れ渡っているのですが、トミカを集めています。数年前のこと、友達に「こいつ、中学生なのにトミカを集めているんですよ。」と言う発言をした生徒がいました。そこでとっさに「俺も集めているよ。大人になっても続けられる良い趣味だよ」と返しました。実はその時チョロQは結構持っていたのですが、トミカは数台でした。集めていると言い切った手前、集めることにしました。今は私の趣味の上位に入ります。先生方の愛車と同じ物を見つけたときはプレゼントして趣味への理解を図っています。
いまさら言うまでもないことですが、トミカ(Tomica)はタカラトミーが製造しているミニカーで累計販売台数は6億7,000万台を超え、2秒に1台売れています。子どもの頃遊んでいた、今でも集めている、放置していた物を親が踏みつけて怒られた、といった経験をされた方も多いのではないでしょうか。トミカで育った子どもは車好きになり、プラレールで育った子どもは鉄ちゃんになっていくということもよく言われます。
今年はトミカ誕生50周年のイベントが多く計画されていますが、一番気になっているのは3社のデザイナーによる「トミカ50周年自動車メーカーコラボプロジェクト」で、特別仕様のホンダシビックTypeR、トヨタGRスープラ、日産GT-Rが販売されます。
トミカはドアミラーがついていない、とがった部分は先端を丸めてあるなど随所に小さな子どもが安全に遊べる配慮がしてある。パッケージの横幅がすべて同じ。サスペンションやドアの開閉など触って楽しい。毎月第3土曜日の「トミカの日」に新車が2台発売され定番140種類のラインナップが入れ替わる等の特徴があります。また、「共遊玩具(一般市場向けに造られ販売されている、目または耳の不自由な子どもたちにも楽しく遊べるおもちゃ)」にも認定されているそうです。(H)
【新聞発表】020328
今朝の朝刊に教職員の人事異動が掲載されました。4名が田浦中を離れます。退任式は23日に済ませているため、それ以降は段ボール箱に荷物をまとめる姿があちこちで見られます。毎年の風景ですが寂しくなります。
新学期に向けての片付けや掃除、備品整理などに取り組んでいる先生もたくさんいます。生徒玄関の風景が少し変わりました。みんな気づくかな。倉庫や資料室も片付きました。毎年の風景ですがわくわくします。
古くて点かなくなっていた校長室の照明機器もLEDへの取り替え工事が終わりました。とても明るい校長室になりました。「来年はバリバリ仕事が進むぞ~!」って、テンションが上がりましたが、私はもうおらんとでした。
昨日、赴任される先生との事務引継ぎの会を開きました。校長先生は八代から異動されます。人吉に勤務していた頃、一緒に社会科の仕事をしたことがある先生でした。美術の先生は同じ町内からの異動、社会科と保健体育は田浦中を数年前に転出して戻ってくる先生方。田浦中生の新たな可能性を引き出していただけることと思います。(H)
【田浦中】020327
A・B「こんにちは~。あまなつボーイです。」
A「あ~、ありがとうございます。今、保護者の方からデコポンの皮ばもらいました。こぎゃんたどぎゃしこあったって良かけんですね。」
B「たいぎゃなありがたかですね。3年担任の卒業式のネクタイごたるオレンジ色ですね。」
B「あんたい、うちの母ちゃんが、好きな学校があっとやばってんが、学校の名前ば忘れてしもたて言うとたいね。」
A「そらどぎゃんこつね?」
B「いろいろ聞くばってん分からんとたいね。」
A「特徴ば言うてみらんね、一緒に思い出してやっけん。」
B「そっが、校長が在のもんらしかったいね。」
A「田浦中たい。そん特徴は完全に田浦中じゃろ。今年は小学校長は町のもん、中学校長は在のもん。小中学校とも田浦のもんが校長ばしとるけんね。こぎゃん地域はあんまりなかばい。」
B「ばってん、校長は標準語ばしゃべらすらしかったい。」
A「なら、田浦中じゃなかね。小田浦出身ならやばってんか、在のもんは田浦弁まっだしやっで。どぎゃんよそで暮らしてきたって、ところどころに田浦弁の出てくるはず。田浦中じゃなかねぇ。もちっと詳しゅう教えてくれんね。」
B「ここ3年ぐらい、駅伝も強なったごたっとたいね。」
A「やっぱ田浦中たい。今年は学校ができて初めて男女揃って県大会に出たけんね。」
B「そるが、たまがっごて足の速か、県トップレベルのいっぴゃおるごたっとたいね。」
A「なら田浦中じゃなかねぇ。一人一人は特別でなくても、チームの絆で毎日地道に練習ば積み重ねて勝負しとる学校やっでな。継続は力なりがキーワードたい。高校生になったっちゃ中学校に走りに来おっとのおるけんね。もちっと何か言わっさんやったね?」
B「文化祭で、1年生が田浦の昔話ば劇にしたらしかったいね。」
A「そら田浦中やがね。1年の学年主任も田浦のもんやっでね。江上トミさんの百年カレーば再現したてばい。総合的な学習の時間を口実にしてカレーば作って食う。あれは主任が食をごたっとやもんね。俺の目はごまかせんよ。」
B「それが、劇に出てきた言葉が流行語大賞にノミネートされたごたっとたいね。」
A「なら、田浦中じゃなかね。『ずいきのこうき』は鬼塚先生が新聞にも載せたばってんか、じいちゃんばあちゃんも「どぎゃん意味かい?」て聞きなるくらい流行っとらんでね、校長がHPや学校だよりに載せて流行らせようとしとる最中ばい。」
B「うちん父ちゃんに聞いたらな、そらメダカの学校やろて言うとたいね。」
A「そら絶対違うど。もうよかばい。」
A・B「ありがとうございました~。」
【5年間】020326
私は田浦中に平成27年度から令和元年度の5年間勤務しました。その間の出来事を整理してみました。前半は自然災害に見舞われましたが、お2人の校長先生の緊急時の対応に学ぶことが多くありました。私も最後はまさかの緊急時対応でした。(H)
平成27年度(114人)
台風15号接近(8/25)プール横銀杏の木倒れる・技術室屋根破損・雨漏り箇所多数
積雪30㎝を超える50年振りの大雪のため休校(1/25・1/26)
武道場照明LED化完工
平成28年度(125人)
平成28年熊本地震前震発生(4/14) 震度7、M6.5
本震発生(4/16) M7.3 2回の地震で校舎、武道場、体育館等にひび割れ被害多数
創立70周年記念文化祭(11/13) 葦北鉄砲隊による記念演武・平江大八隊長講演会
同窓会役員交代(会長:田多良龍清さん→元山秀志さん)
平成29年度(101人)
芦北水俣郡市中学校駅伝競走大会女子初優勝 体力向上優良校受賞
平成30年度(95人)
武道場床張り替え工事完工・塀改修工事完工
郡市駅伝女子準優勝 体力向上優良校受賞
第32回毎日カップ「中学校体力つくり」コンテスト優良賞受賞
平成31年(令和元年)度(76人)
5月1日改元「令和」
熊本県教育委員会指定「子どもたちによるいじめ防止推進事業」
郡市駅伝男子優勝・女子準優勝(初の男女揃っての県大会出場)
体力向上優良校受賞・日本教育公務員弘済会実践論文奨励賞
新型コロナウイルス感染症対策のため臨時休校(3/2~3/24)
【暗号】020325
ことしのたいにんしきがこんなかたちでおわるとはおもってもいませんでした
ろくにおもいをつたえるじかんもなくみなさんとおわかれです
なこごたるとはこぎゃんときつかいます
のこりわずかのたのうらちゅうきんむとなりましたが
ばとんたっちのひまで(しがつついたちからはらいばるです)
かのうなかぎりのおおきなこえで
たのうらちゅうせいにえーるをおくります。がんばれたのうらちゅう!
れいわがんねんどてんしゅつしゃいちどう(H)
【お世話になりました2】020324
私は田浦中に教頭で3年間、校長で2年間勤務しました。卒業生ということもあり、地域や保護者の皆様には大変良くしていただきました。
平成27年、田浦中に赴任した最初の体育大会で、今は婆ちゃんになっている近所のおばさんたちから「あんたば見に来たったい。こぎゃ~んこまかったとに。」と喜んでいただきました。ありがたい言葉です。たぶん、昔からあんまりこもはなかったと思います。
平成30年、校長最初の入学式、控え室でのあいさつの時も来賓の皆様から激励の大きな拍手をいただきました。田浦に来ることができて良かったと思うことばかりでした。
在任中に改元という大きな節目がありました。元号「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうです。田浦中がこれからも生徒・保護者・地域・職員の(「令和」の英訳である)「Beautiful Harmony(美しい調和)」のある学校であり続けますことを願い、保護者・地域・職員の思いと重なる万葉集の山上憶良の句で退任のあいさつを閉じます。(H)
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
※銀も金も玉(宝石)も、どうしてそれらより優れている子どもに及ぶだろうか。いや及びはしない。
【お世話になりました1】020323
簡素化した修了式に引き続き、放送で退任式を行いました。4名が田浦中を離れます。
K.T先生(社会科):2年間の勤務でした。吉井先生も中学生の時社会科を習っていました。調べ学習と発表、小テストで徹底して生徒を鍛えていただきました。発表日の直前には私のところにもアドバイスを受けに生徒がやってきていました。校長への相談ポイントを高く設定してあったようです。高圧洗浄機での校舎の清掃、ピアノ移動台や用紙棚、すのこ製作、社会体育の剣道の指導など、特技を生かした活動にも力を入れていただきました。
Y.S先生(保健体育):3年間の勤務でした。在は天神さん付近、町は道の駅たのうら付近まで響く声。田浦中で身長・体重ともにトップ。その大きな体は情熱でできています。生徒の長距離走練習に毎朝休むことなく付き合い、田浦中生の潜在能力を引き出して3年連続体力向上優良校受賞、郡駅伝女子初優勝、3年連続県大会出場、今年度は初の男女揃っての県駅伝大会出場を支えました。卒業した後も生徒を励まし、保護者の相談にも乗る面倒見の良さで慕われていました。
M.K先生(美術):2年間の勤務でした。日常生活の中で「きれいだ」と感じたことを見つけさせる活動を通して、生徒の美的感性を育むことに継続して取り組まれていました。故郷田浦の美しさを再発見した生徒も多かったのではないでしょうか。掲示された生徒作品を観ると、レベルがぐんぐん上がっているのを感じました。人に接するときの言葉の重さ、「言霊」についても語り掛け続けてこられました。
H.M(校長):田浦には頻繁に帰っていますので、在の天神さん付近や阿蘇神社、御立岬公園、コンビニ、肥後うらら、ヒライ等でお会いすることがあるかも知れません。後輩の活躍をこっそりと見守っています。(H)
【たりたり】020322
不要不急の外出はしないと言うことで、3月の休日は本を読んだりロードオブザリング、勇者ヨシヒコなどのDVDを観返したり、片付けをしたり、ブログを書いたりして過ごしました。ゲームキャラクターのレベルも最大値に達しました。今更ながらキングダムも読みました。止まらなくなりました。久しぶりに秦の始皇帝について調べています。
平日も帰宅途中に買い物をしてほぼ毎晩ご飯を作る生活でした。妻からは買ってくる物のリストがラインで送られてきます。音声入力の方法を覚えたのでやおいかんです。
同じく早く帰宅するようになった長男は、私がご飯を作るのを近くで応援したり、黒ネコの「おはぎ」をなでたり、筋トレやランニングをしたりしていました。これまではお互い忙しかったのですが、長男が4月から家を離れる前にゆっくり話す時間がとれました。
休み中は妻に弁当を作ってもらいましたが、申し訳けないことに朝から声を掛けてもらいながら忘れていったこと1回、洗った弁当箱を学校に忘れていったこと1回。セーフの範囲です。
臨時休校に入る前に、田浦中のある先生が息子さんに「来週から給食がないのでスーパーカップを2種類買ってきて。」と頼まれたそうです。数分後、味の違うスーパーカップを2つ買ってきてくれたそうですが。「スーパーカップ」違いでした。
何のことかわかります?先生が頼んだのはエースコックのスーパーカップ、息子さんが買ってきたのは明治のスーパーカップ(本名「エッセル」)でしたとさ。(H)
【むかしむかしEP10:最終回】020321
遠い昔、遙か彼方の田浦で…。
生まれてから今日までを分母、今年1年を分子とすれば、答えはどんどん小さくなっていきます。小学校の4~6年の3年間と、中学校の3年間では圧倒的に後者が短く感じます。
子どもの頃は阿蘇神社の秋の例大祭には桟敷が造られ、参道には出店がたくさん並んでいました。中学生の頃はまだ奉納相撲は残っていました。中学生ともなると、まわしを着けるため相撲に出るのを嫌がる人も多かったようです。そのような中、相撲に参加して随分喜ばれたことを思い出します。教頭として帰ってきたときにも地域の方からその時のことを思い出して話されました。写生大会の会場も阿蘇神社でした。絵が上手な先輩を真似しながら描きました。
中学校卒業式は昭和56年3月18日(水)、卒業生は132名。担任は1組林田洋文先生、2組四宮真理子先生、3組矢田昭士先生でした。四宮(船崎)先生とは縁あって、平成15年度に水俣二中で同じ学年の担任をしました。
校歌は今以上に歌う機会が多かったはずなのに、「ああ若き日の純潔の」と「友愛の」、「ここに育つ」と「学ぶ」のところでみんな急に声が小さくなりモゴモゴしていました。これは今の田浦中生も同じのようです。途中モゴモゴする歌声を聞くたびに「後輩だなぁ。」と感じます。
少しだけ卒業後のことを。高校でもバレーボールを続けていた3人で、総体後に男子バレー部の練習に顔を出したりしていました。益田くんや池邊くんなどが中3でした。その頃は新しくできた現在の体育館で練習をしていましたので、顧問の先生にあいさつをしてこっそり体育館に入り練習を手伝い、こっそり帰っていました。卒業したら、学校に来るのは恥ずかしいという感覚でしたので運動会や文化祭も来たことがありませんでした。再び校舎に入ったのは平成22年の田浦中の研究発表、中村直人先生の研究授業の時でした。そして、平成27年にやっと赴任することができました。
ぐだぐだのエピソード1~10にお付き合いいただきありがとうございました。臨時休校中の書きだめも尽きましたのでこの辺で。(H)
【むかしむかしEP9:その他もろもろ】020320
遠い昔、遙か彼方の田浦で…。
校舎の様子も随分変わりました。夏は暖房、冬は冷房完備の古い技術室が部室棟の隅にありました。外に置いた友達の靴の中にクモが入って潰れていたことがあり、履く前の確認を欠かさないようにしました。中2の3月に新技術室が完成し、雨に濡れながらの移動もなくなりました。
保健室は今のたのうら教室の位置にありました。オオルリ・コールに参加されている庵千沙先生が養護の先生でした。保健委員会の「目の休養タイム」で視力回復を図りました。
生徒玄関横の階段下には購買部がありました。制服の襟章やボタンなどはそこで買っていました。今はパイプ椅子置き場です。
今は塞いで壁に塗り込んでありますが、各階にはゴミを落とすためのダストシュートがあり、武道場のステージ側と中村医院の間にはトイレがありました。
小学校にはプールがなかったため、水泳の授業は中学校のプールまで移動していました。小学生に合わせて水深が浅くしてあったので、授業の飛び込みで鼻をこすりました。飛び込みは背が高い者には恐怖でした。(現在、安全面から各学校のプールは飛び込み台が撤去され、授業での飛び込みの指導もありません。)
現在体育館があるところには田浦町役場が、武道場駐車場には森林組合が、百原商店横には農協が建っていました。
1年生の頃はプール横の給食センターが建設中だったため、弁当持参でした。おかずに煮染めが入っていませんようにと祈りました。部活終り頃には給食で残った牛乳を冷やして運動場に行く通路に置いてあり、飲んで帰っていました。今はやってはいけないことです。
教室を回ると、窓枠に同級生や先輩の名前の落書きを見つけることができます。記念に残したのか3年教室が多いようです。これも今の生徒は、将来子どもに見られると恥ずかしいのでしないそうです。(H)
【むかしむかしEP8:なんやかんや】020319
遠い昔、遙か彼方の田浦で…。
当時はまだ御立岬公園駅もなかったので、海浦、上田浦の友達は列車で肥後田浦駅まで行き、あとは学校まで片道1.6㎞の徒歩通学でした。自転車通学も肥後田浦駅より遠い地域に限定されていました。横居木方面はバスが出ていましたが、土曜はバスを待たずに歩いて帰る友達も多くいました。歩く、走るが日常化していました。
体育大会は「うったちばれ(仮装行列)」が名物でした。私の学年は「ルパン三世」、「ドラえもん」、「シャネルズ(現ラッツ&スター)に扮しています。前年度は「口さけ女」ですから仮装で流行がわかります。「棒倒し」や「組み体操」は上半身裸での競技。私は大きかったので3年間土台担当でした。全国的に事故が多く発生したため、今はあまり行われていない競技です。
文化祭は1年生の時、柔道部の同級生が髪を水色の絵の具で塗って一休さんを演じたことだけを鮮明に覚えています。2・3年生の時のことは思い出せません。
男子の制服は一つ上の先輩までは長ランや洋ランの裏地は竜虎が流行りました。K先輩が、襟カラーが高く着丈の長い新しい制服を着てきた時のことを覚えています。先輩方のアルバムを見ると昭和54年度卒業組だけ、むち打ち治療のような高さの襟カラーを見受けます。隠しポケット、色のついた裏ボタン等の装備も満載でした。
私たちが中3の頃は流行も廃れ、徐々にアイビーブームに入り、丈は短めでベイシティローラーズの影響か裏地はタータンチェック。カラーも徐々に低くなっていきました。(H)
【むかしむかしEP7:学校生活】020318
遠い昔、遙か彼方の田浦で…。
中3の1学期末テストまで廊下に定期テストの順位が張り出されていました。ある教科では授業の座席は各クラスの男女の1位、男女の最下位の4人で1グループといった成績順で、定期テストごとに席替えがありました。楽しみな人も憂鬱な人もいたと思います。恐ろしい時代です。
1年生の2学期になり、小学7年生から中学1年生に進化することができたので勉強も結構するようになりました。テスト前は、昨夜は何時まで勉強したかという競争をしていました。母が「教えきらんけん、一緒に起きとることしかでけん。」と言うので、一旦布団に入り、寝静まった頃にごそごそ起きて勉強していました。
男子は技術科で女子は家庭科、保健体育も男女別でしたので、とても鍛えられていました。
毎時間、体育の授業の最初にインターバル走、10分間走などコースを選んで走っていました。体育や部活動、日常生活の中で鍛える場面が多くありました。私は仕事がら行事を自分の中学生の頃と照らして考えることが多くあります。同級生に聞くと大半は覚えていないようですが、2年生2月の立志式で野球バックネット裏に「唐楓」の記念樹を植えました。出張で田浦中に来たときは、木の成長を必ず確認していました。岩坂俊一校長先生(第8代:昭和49年度~54年度)寄贈の「継続は力なり」の石碑もこの頃建ちました。校訓碑が建ったのも同時期です。(H)
【今日の出来事】020317
昨日は1・2年生の登校日でした。久しぶりに子どもたちの声が学校に響きました。臨時休業期間の体調不良者もいなかったようです。概ね規則正しい生活を送っている様子で、学習課題をすべて終えた生徒もけっこういました。毎日ランニングをして体を鍛えている生徒もいるようです。
8時半:例年でしたら今日は合格の報告に来た3年生を激励し、持ってきた卒業アルバムにメッセージを記入するなど職員室が賑わう一日ですが、今年は県立高校の合格者が県教委の特設ホームページ上で発表されたため、学校でドキドキしながらページを開きました。みごと合格、全員の進路が決定しました。
10時:9月に応募した日本教育公務員弘済会の教育実践論文で奨励賞を受賞し、坂井熊本支部長が来校されて表彰式を開いていただきました。論文のタイトルは「各部会の機能と連携の強化を柱とした組織的・計画的な進路指導の充実」です。
11時:シュレッダーの修理。奥に詰まった紙くずがごっそりと取れるのは快感です。一緒に作業をしたI先生もノリノリでした。
13時半:学校評価委員会を開き、本年度の田浦中の教育実践と成果と課題について説明、学校関係者評価をつけていただきました。結果は後日HP上で公開します。ここでも話題は新型コロナウイルス感染症対策のことでした。
15時:小学校の学校評価委員会に出席。参加者の意見を聞きながら、合同でできることは合同で取り組み、スケールメリットを生かせないかと考えました。(H)
【令和元年度卒業式3】020316
芦北町の学校では論語教育に取り組んでいます。田浦中の『学校だより』のタイトルは知行合一ですが、これは論語のこのような話から採ったものです。
弁が立つ弟子の子貢が、孔子に「君子とはどんな人ですか?」と尋ねたときに、「普段からあなたが話していることを先に実行しなさい、その後から言葉が出てくるような人が君子です。(まずすることをして、言いたいことがあればその後で言いなさい。)」と答えたそうです。
知って行わないのは、未だ知らないことと同じである。知識は行動と一致してこそ意味がある、本当の知識は実践をともなわなければならない。なかなか困難なことです。卒業生の皆さんに一生の課題として「知行合一」の言葉を贈ります。
最後になりましたが、保護者の皆様方に心よりお慶びを申し上げます。職員一同、巣立ち行くお子様の無限の可能性に期待し、これからもその成長を見守りたいと思います。行き違いもあったかと思いますが、目指すゴールは学校も保護者も同じであることをご理解いただき、この3年間本校教育に対するご協力を賜りましたことに厚く感謝申し上げます。
卒業生の皆さん。いよいよお別れです。皆さんはこれから凧のように大空に高く、高く舞い上がっていきます。日本にとどまらず、世界で活躍する人も出るかもしれません。しかし、太く、強い凧糸は故郷田浦に繋いでおいてください。田浦中はいつまでも皆さんの心の拠り所です。
ところで式場の入り口の「卒業式」の立て看板を思い浮かべることはできるでしょうか。そこには赤い模様が描かれています。これは、昭和53年度卒業生の竹林公一さんが後輩への思いを込めて「未来へ続く道」を表し、デザインされたものです。皆さんの成長を見えるところ見えないところでたくさんの方が支えています。皆さんの幸多い人生を祈っています。(H)
【令和元年度卒業式2】020315
9月の郡市陸上競技大会では、選手の頑張りはもちろん、支える側に回って頑張った人がいました、応援パネルをつくり、声をからした人たちがいました。県大会でケガのためベストの跳躍ができなかった友達は悔し涙を流しました。支えてくれた保護者や仲間、指導にあたった先生たちとの絆の涙でした。
さらに、今年度は田浦中としては初めて、男女両チームが県駅伝競走大会に出場することができました。これは郡陸上で連続優勝をしていた頃でさえもできなかった快挙でした。田浦中は葦北水俣で2番目に小さい学校です。小さくとも個々の才能で勝負できる競技はあるでしょう。しかし、学校同士が競い合う駅伝での成果は並大抵の努力では残せません。走ることが好きな者だけが集まった競技ではありません。自分の時間を犠牲にして、田浦中の「温故創新」を体現してくれた駅伝チームの皆さんに心から感謝しています。
3年前の皆さんと、卒業した後も走り続けている先輩方から新しい田浦中の歴史が始まりました。後輩たちが伝統の襷を繋いでくれることを願っています。
11月の文化祭では、表現力豊かな劇はもちろん、合唱コンクールで演奏の前から涙を流す指揮者の姿がありました。指揮者、伴奏者、合唱団。どの学級よりも練習をしました。結果発表の瞬間の歓声。今年1年で成し遂げたものではないことを皆が知っています。よくぞここまでたどり着きました。
特筆すべきは生徒会活動です。会長を中心とした執行部は「イイコト流星群」、「プロフィールブック」、「カンボジアに学校を贈る運動」などの公約を確実にやり遂げ、その実行力には目を見張りました。間違いなく過去最高の執行部でした。現執行部は皆さんが目標です。執行部と、全生徒からなる生徒会の皆さんのこれまでの活躍に対し、改めて称賛の拍手を送ります。
校長室の前を通るとき必ず立ち止まって、中にいる私に礼儀正しいあいさつをしてくれる2名の男子卒業生がいました。早起きは苦手だけど、優しさは男子で一番だという生徒がいました。田中前校長への誕生日メッセージや担任のサプライズ誕生会、心遣いもでき、良さを語っても語り尽くせないのが卒業生の皆さんでした。(H)
【令和元年度卒業式1】020314
令和最初の卒業生22名が本校を飛び立ちました。新型コロナウイルス感染症対策のため、卒業生、保護者、職員、教育委員会により式を挙行しました。マスク着用、アルコール消毒、内容の削減と卒業生には申し訳なく思いましたが、心のこもった式でした。
5月の体育大会、予定された日は未明から大雨が降りました。私と米先生が2人で水を抜くための水路を掘っていたところ、ある3年生が、「あれは私たちがしないといけないことじゃないのか。」と友達につぶやいたそうです。昼休みになり、別の3年生が学級で声を掛け、全員がグラウンドに出てスポンジでの水抜き作業。最後の体育大会を成功させたいという強い思いを感じました。翌日は、『田浦中PRIDE ~超えろ!己の限界を~』のスローガン通りの体育大会ができました。令和最初の総合優勝は青団。閉会式の赤団団長の悔し涙が呼び水になったようです。土砂降りの中の後片付けも良い思い出です。生徒数は昨年の3年生の半分ですが、この時、頑張りの総和は上回るに違いないという確信をもちました。
6月の郡市中体連総体では、卓球男女、バドミントンそして、剣道、空手の4競技が県大会に出場を決めました。大会は優賞チーム以外すべて敗者です。しかし、勝者だけに価値があるのではありません。全会場を回られた中体連会長から、県大会に出場することのできなかった女子バレーボール部の必死なプレー、試合終了後の爽やかな態度が今年の全競技で一番だったと声を掛けていただきました。皆さんを誇らしく思いました。ゴールを守るたった一人の3年生のサッカー部員の姿も心に残りました。(H)
【心と気を働かせる】020313
いよいよ明日は卒業式。これからは田浦中を支える立場になります。後輩への叱咤激励をよろしくお願いします。将来、もし田浦中の保護者になった時、学校から何か頼まれたら「余裕です。」その一言に期待しています。楽しかったという思いを後輩たちにも味わわせましょう。
さて、ある日のこと、織田信長が小姓の一人を呼びつけました。小姓が居室に入ると、信長は何も言いません。間をおいて発した言葉は「下がってよい」でした。
次の者が呼ばれました。信長は今度も何も用事を言いつけず、また「下がってよい。」と言います。同じ遣り取りが何度か繰り返された後、森蘭丸が呼ばれます。
蘭丸も同じように「下がってよい。」と言われ、居室から出ようとしました。その時、蘭丸は出口近くに小さなゴミが落ちているのに気づいて拾います。
信長は、蘭丸が居室から出るのをとめ、こう言います。
「人は心と気を働かせることをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。お前はゴミに気付いて拾った。なかなか感心である。」
卒業したら心と気を働かることができるようになってほしいですね。
※小姓=位の高い武将等の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う役目の家来
【大河内紙の卒業証書】020312
昨日、公立高校後期選抜が終わりました。検査会場から出てくる受検生は一様に安堵の表情を見せていました。17日に合格者発表、その日から二次募集の受付が始まり、今年度の入試の全日程が終わります。
今日は、例年は基本動作や歌、証書授与などの練習、会場設営などを行っていますが、今年は臨時休校前の28日に概ね済ませた後、在校生による生徒玄関での見送りを行いました。卒業生の手は夏休み前のちびまる子ちゃんのように学習用具でいっぱいでした。
ところで、芦北町立学校の卒業証書は、芦北町の北部に位置する銅山(かなやま)地区伝統の手漉き和紙『大河内紙』でつくられています。
『大河内紙』は江戸時代から昭和35年頃まで盛んにつくられていたそうですが、一時途絶え、子どもの頃に紙すきの技術を学んだ大河内紙保存会の皆さんが復活させました。強くて破れにくい上、防虫効果があり、障子紙や米の保存袋として重宝されてきた和紙で、焼酎『夢あしきた』の瓶のラベルにも使われています。私たちの卒業証書は既製の用紙でしたので羨ましい限りです。(H)