湯浦中ブログ

亀城ヶ丘だより

【入学式・授業参観】030302

湯浦中学校入学から3年が経ちました。卒業式まで2週間、3年生の入学からの歩みを写真で振り返ります。まずは緊張の面持ちの入学式と授業参観の様子です。

 

【卒業おめでとう】030301

3月は「去る」。今日は高校3年生が学校を去る日です。残念ながら、昨年に続き卒業式に臨席することはできませんでした。令和6年の成人式で再会できると嬉しいですね。

放課後に芦北高校を卒業した先輩があいさつに来てくれました。野球部キャプテンや生徒会会長としても活躍、夏の大会後は公務員試験に向けて、学校で9時、10時まで勉強する学校生活だったそうです。「自分も中学生の頃はそう考えていましたが、芦北高校の林業科に進学しただけで公務員試験に合格するのではなく、3年間の努力が大切でした。」ということを後輩に伝えていきました。中学生だった頃からいらっしゃるS先生、N先生とパチリ。4月からは芦北町役場勤務です。

 

【授業参観・学級懇談会】030228

 26日(金)の今年度最後の授業参観・学級懇談会には多数の保護者の皆様にご来校いただきありがとうございました。

 生徒会室を覗いて帰られた方もいらっしゃいました。そうです、これがテレビで紹介された「ニシキヘビ」と「オオトカゲ」の皮、「ダチョウの卵」の3点セットです。爬虫類が苦手な方もいらっしゃいますので画像は閲覧注意です。見たい方のみクリックしてください。IMG_4674.JPG IMG_4675.JPG

【白い蜘蛛】030227

立志式の話の続きです。

 アウトドア用品の総合メーカー、株式会社モンベルの代表取締役会長 辰野勇(たつの いさむ)さんは16歳の時に、最後に1800mの垂直の壁が待っているアイガーという山の北壁に初登頂したハインリッヒ・ハラーの体験記『白い蜘蛛』を国語の教科書で読み、感動して、

①10年後の26歳でアイガー北壁に登ること

②28歳で山にかかわるビジネスを始めること という目標を立てました。

まさに志を立てた瞬間です。そして、何を始めたか。

筋トレ、ランニング、登山の練習などに取り組むと言うのが普通の発想だと思いますが、辰野さんは登山にはお金が必要だということで「アイガー北壁」と書いた貯金箱をつくったそうです。夢に終わらせない、具体的な取組を始めたわけです。

そして5年後、予定よりも早く、最年少記録の21歳でアイガー北壁登頂に成功しました。

登山中はあまりの過酷さに、二度と山には登らないと思ったそうですが、山頂からマッターホルンが見えた瞬間に、次はあの山だと決意したそうです。

立志式を決意の日、具体的な目標、期限を決め動き出す日にしましょう。皆さんの挑戦に期待し、応援しています。

【立志式】030226

 2年生は立志式を行いました。 

 事前学習で学んでいるとは思いますが、立志式は、武士社会で数え12~16歳の立春の日に行われていた元服式がもとになっています。元は頭(首)、服は着用するを表し、頭に冠をつける式でした。この日を境に、髪型、衣服を大人のものに替えて、社会から一人前の大人として認められました。

 また、当時は大人になると言うことは、戦に行くことができると言うことであり、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の息子、主税は12月に元服し、メンバーに加わり、16歳で切腹しています。まさに、元服式は覚悟を決める式であったと考えることができます。 

 現代においても、法的には13歳までは刑事責任年齢に達していないため、刑罰は受けませんが、14歳からは刑事処分が可能な年齢となり、社会的責任は一層重くなります。

  西郷隆盛が尊敬した幕末の志士『橋本左内』は、皆さんと同じ年齢の頃、『啓発録』という書物に、「自分は何をしてもおろそかで、注意が行き届かず、弱々しくてぬるい性格であるため、いくら勉強しても進歩がない。これではとても父母の思いに応え、藩や主君のお役に立ち、祖先の名を輝かすような人間になれるはずもない。一体自分はどうしてこんなに駄目なんだろう。そう思うと情けなくてたまらず、毎晩涙で布団を濡らした・・・」

 果たして自分には覚悟があるか。

 そして左内は、〇稚心を去る 〇気を振う 〇志を立てる 〇学問に勉める 〇交友を択(えら)ぶ という決意をしています。

※明日に続きます。

【人権集会】030225

リモートで人権集会を行いました。私からはネイティブアメリカンの教えという短い話をしました。

「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。

 だから、いつかあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい。」

どんな生き方をすればよいか。人権と重ねて考えてくれると嬉しいです。

【一生分】030223

子どもは小さいころに一生分の親孝行をするといいます。

私が人吉二中に勤務していた27歳の時に長男が、30歳の時に次男が生まれました。8ヶ月くらいで保育園に通わせることになりましたが、二中の近くに保育園がありましたので、送り迎えは主に私の役目でした。また、妻は土・日が勤務の仕事でしたので、金曜日の部活動が終わった後、私が息子たちを田浦に預けに行き、土・日は田浦から部活に通い、日曜の午後に迎えに行くという生活、今の言葉で言うならブラック部活です。

人吉三中に異動してから、妻の転勤が急に決まりました。最初は妻と2人の息子は水俣に引っ越しました。私は単身赴任の予定だったのですが、毎晩9時頃に当時5歳の長男から「おとうさん、なんでかえってきないの。」の電話。「わかった、今から帰るよ。」と水俣に向かう生活が続きました。帰宅した頃には、5歳と2歳の息子は熟睡していました。

そこで、私も5月から水俣に引っ越し、片道70分の道を通うことにしました。毎朝5時半に出発する私を長男は早起きをして必ず見送ってくれていました。

二生分、三生分の親孝行をしてもらいました。

中学生になると「あーいた、いっちょん言うこつばきかん、はがいかよ。」となることもあるでしょう。もう親孝行は済んどるけんしょんなかっです。(H)

 

【剥製巡礼】030222

 20日(土)に放送されたRKKテレビの「土曜の番組」の「剥製巡礼」というコーナーで、湯浦中玄関の「熊の剥製」が紹介されました。放送の中で私が、「どのようないきさつで来たのか(学校日誌なども調べてみたけれども)記録がなくてわからない。」と答えていましたが、その放送を見た高校時代のバレー部の先輩(倉本照和さん)から、「調べてみる」との連絡がありました。なお、ニシキヘビとトカゲは、旧校舎の時は理科室に展示してあったと思うとのことでした。

 クマは、倉本さんが同級生の久木田さんに聞いたところ、昭和50年度から55年度に亘って湯浦中学校長であった四宮千香志先生の教え子の木藤義夫さん(昭和11年生まれ)が、北海道にある東洋建設の社長をしていて、剥製を寄贈していただいたということでした。まずは情報はここまでです。

 番組で熊本博物館の清水稔さんにホームページの写真を見てもらったところ、「(正面からの写真を見ただけなので断定はできないが)シロクマではなくヒグマではないか。長年、紫外線に当たり続けて変色したとも考えられるが、突然変異もしくは個体変異レベルでもともと色が薄かったとも考えられる。」とのご意見をいただいたそうです。

 余談ですが、放送を見た大学時代の友人から電話がありました。クマことはもちろん話していましたが、「まさやんはふとかねぇ、畑口とかわらんたい。」との感想。身長183cmと言うことで、私とほぼ同じでした。