亀城ヶ丘だより
【昭和57(1982)年 田浦水害(前編)】020711
今回のブログは、6月に準備し期日指定でアップを予定していたものです。まさか、あの時以上の豪雨被害に見舞われるとは思っていもいませんでした。佐敷中近くに住む私の息子たちも床上浸水、真夜中の避難中に危うくという場面がありました。息子には田浦水害の話はしたことがありましたが、まさか佐敷中校区がこのような豪雨水害に見舞われるとは思ってもみませんでした。後編の最後は寺田寅彦氏の「天災は忘れた頃来る」で結んでいますが、教訓よりも「まさか~だろう。」のバイアスが強く出てしまいました。こういう時期ですが、戒めのためあえて予定通りアップすることにしました。
私が高校2年生だった昭和57年7月12日(月)の昼前のこと、「田浦中出身の生徒は集まってください。」という放送が入りました。何かと思って指定された教室に行くと、「田浦が大変な大雨になっていて、帰すことができない。水俣の友達の家に泊まるように。」との説明がありました。「いつも通り朝6時過ぎの列車に乗って駅を出たのに、水俣もそんなに降ってはいないのに。急に泊まれと言われても困るのに。」情報源も今とは違いスマホもなく、私たち高校生には切迫感はありませんでした。
午前10時までの1時間の雨量は65mm、1日の雨量が328mm。不知火海の満潮とも重なって田浦川等が氾濫、肥後田浦駅周辺や小中学校周辺も家屋への浸水が続出したとのこと。テレビには駅前の被害の様子が映し出されました。
高校の隣にあった同じクラスの友達の家に、田浦中出身の3人で泊まらせてもらいました。テレビのニュースはずっと大雨関係ばかり。不安な夜を過ごしました。
翌朝、高校が借りたバスで田浦へと向かいました。国道3号線は渋滞、8時間近くかかって田浦に着きました。途中は泥道。船江付近では、甘夏ミカンの木が根が付いたままで海に浮かんでいました。色の変わった壁を見て、水の高さに驚きました。町中、泥の匂いがしました。あちこちに消毒のための石灰が巻かれていました。(H)