校長ブログ「秘密の部屋」

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【東日本大震災】020311

 平成23年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。震災による死者・行方不明者は1万8428人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4893戸が公式に確認されています。日本国内で自然災害により1万人を越える死者・行方不明者が出たのは、戦後初めて(明治以降でも関東大震災、明治三陸地震に次ぐ規模)です。

 平成23年、当時の宮本勝彬水俣市長は、公式確認から55年を迎える水俣病の経験を踏まえて、水俣病被害者や水俣市民が差別や偏見を受け、風評被害による様々な影響があったこと、原発事故で起こっている問題は、水俣病と重なる部分が極めて多いことなど、震災による原子力発電所の事故を受け、避難者への差別や偏見をやめるよう呼び掛ける緊急メッセージを市のホームページに掲載されました。

 震災後、福島県出身の水俣一中の保護者の思いがきっかけとなって、福島県と水俣市の中学生の交流事業が始まり、数年に亘って継続されました。

 私は、平成25年11月に福島県で開かれた事前学習会に水俣市の教頭を代表して参加し、福島県の中学生に水俣二中の環境教育の取組について講話を行いました。

 前日に仙台空港に着きました。タクシーの運転手さんは「私は、今は他県からのお客さんに語ることで、やっと心を落ち着かせることができている。」と話されていました。

 閖上浜に着くと、他県在住の閖上地域出身の方に出会いました。やっとここに来る決意をしたそうです。「自分が知っている風景が何もない。」と涙を流されていました。

 帰熊の日は楽天イーグルス初優勝パレードでした。前日の懇親会で福島県のPTA役員さんは、スポーツが元気をくれるということを強く語られていました。(H)

 

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【広がった応援の輪】020310

 8日(日)の熊日新聞を読んでいると、「心に残るいい話」に「広がった応援の輪」と題した鬼塚和子さん(本校心の教室相談員)の手記が掲載されていました。朝、お友達の庵千沙先生から「都道府県対抗男子駅伝大会に妹の孫が選手として走る。」という電話があったこと、こたつの番をしながら応援したこと、熊本県チームは7位と瑞気の香気であったこと、1本の電話から喜びが何十倍にも大きな輪となったことなどが綴られていました。

 その日は朝から夜10時頃まで33本もの「新聞を読んだよ。」という電話がかかってきたそうです。携帯と子機を近くに置いて1日過ごされたようです。私は月曜の朝に34本目の電話を掛けました。

 さて、今日と明日は公立高校の後期選抜です。私は朝から各受検校を巡回し、久しぶりに3年生数名に会いました。学校によっては保護者、職員の待機場所は自家用車の中が推奨されていました。17日の合格者発表もネット上で行うということです。

 今年の漢字の読みは「半ば」、「行為」。書きは「ムき合う」、「ムチュウ」。国語で唯一答えが最初から分かっている問題です。書けていると信じています。

 明日の社会科は、私の予想では地理は離脱に関して「EU」、時差の計算で「オリンピック」、歴史は改元で「大化の改新」、明智光秀に絡めて「戦国時代」、公民は10%の「消費税」とグレタさんで「地球環境問題」が出題されます…。たぶん。外れても責任は取りません。(H)

 

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【むかしむかしEP6:授業】020309

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 1年時に2名の転出者がいたため、2年生から135名の3クラスになりました。(その当時の1学級の上限は45人でした。現在は40人です。)担任の林田洋文先生がよく使われる「すこぶる」は田浦弁では聞いたことがありません。どんな意味かと辞書で調べました。

 社会は競衛先生。特徴的な黒板の文字をみんなで真似していました。中学生は影響を受けやすいものです。現在佐敷中勤務の松岡先生は、授業に位置づけられた必修クラブで競先生の中国語クラブに入っており、そこで習った「天安門」の歌を良く歌っていました。

 理科の大崎先生の授業では、三角定規2つを組み合わせて「力の分解」をすることができない者が、あーでもないこーでもないと踊るという「定規踊り」が印象に残っています。水素を集めて火をつける実験では、指示のあった試験管ではなく、先生に隠れてビーカーに集めて爆発させた強者もいました。当然、厳しい指導が待ち受けていました。彼は酸化カルシウムと水の反応実験でもやってくれました。興味の高さ故プラス若気の至り。その後、理系に進んだと聞いています。

 とにかく学習内容以外のことだけが記憶されるのが世の常です。私も生徒に会うと「授業中にガンダムを見せてもらった。」と言われます。ガンダムダブルオーを「世界紛争」の授業の導入に使っただけですが、たぶん授業の内容は忘れられています。生徒の記憶に残っているのは「ガンダムを観た!」です。(H)

 

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【むかしむかしEP5:中体連大会】020308

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…

 2・3年生の顧問は数学科の長船建二先生でした。先生はバレー経験はありませんでしたが、数学科らしく角度、統計、確率などの用語で指導をされていました。体育大会の綱引きでも、最も力が出る角度について説明されました。

 大会前の練習はOBの福田貴司さんにずいぶんお世話になりました。笑いながら、「スパイダーマン(当時放送されていた特撮番組)のように低く素早く動け。」と指導されたことを思い出します。一度、2年生から厳しい指導を受けている最中に練習に来られたことがありました。福田さんが神の使いに見えました。

 最後の大会の前に水俣工業高校との練習試合に連れて行ってもらいました。そして、帰りに水光社で部員全員に釜揚げうどんをおごってもらいました。初めて水俣に行った私は、福田さんから「水光社に行くぞ。」と言われ、「何の会社?」と思いました。

 他の高校にも練習試合でお世話になりました。高校生と試合をしてもセットはとれていたので、いけるんじゃないかという気持ちで中体連大会に臨みました。

 3年時の中体連大会は完成したばかりの佐敷中体育館でありました。言い訳から入ります。1週間前での練習試合でひどい腰痛になりました。本番は準決勝で大野中学校に敗れました。2週間程前の練習で、「部活をやめる。」と言った出来事があったので、私にとってはこれが最後の試合の予定でした。(その時は。)

 当時は中学校数が多かったので、大会は水俣市と葦北郡が別でした。3年生の時の県中体連大会ではソフト部が優勝、柔道部が準優勝。郡陸上総合優勝、郡駅伝優勝。田浦中は運動競技がとても強い学校でした。

 生徒数の減少に伴い、残念ながら現在はソフトボール部も柔道部もありません。サッカー部とプロ選手を輩出した野球部は他校と合同でないとチームが組めない状況です。(H)

 

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【むかしむかしEP4:部活動】020307

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 背が高かったからでしょう、入学後に全く面識のなかった3年生の竹林公一先輩から「男子バスケット部ば作るけん入れ。」と誘われていました。創部には至らず、5月頃にバレー部に入りました。顧問は1年生の時が濱田洋一先生でした。練習はプール横のコート。フライングレシーブで体育服は黄土色、血だらけです。胸のあたりに裏からタオルを縫い付けるのがケガ防止策です。

 2年生の先輩方の指導はかなりハードでした。当時、土曜日は午前中授業のため、弁当を食べて練習までの時間は、グラウンド裏の川でカエル釣りをしたり、プール横のヤマモモを取って食べたり有意義に過ごしました。山にランニングに行くとワラビを採りに行かされ、収穫量が少なくても、一生懸命とっても時間がかかりすぎたとビ○○され、1年生は普段入れないのに、部室が散らかっていると○ン○され、歯医者に行くのは○○タされてから。アムロではありませんが、まさに「殴ったね! 親父にもぶたれたことないのに!」です。

 時には世の中で一番苦手なクモを持って追いかけられたり…、これでまだ半分くらいです。筋トレの足あげ腹筋、腕立て伏せやウサギ跳びも気の遠くなるような時間や回数が単位、友達はグラウンド一周フライングレシーブというのもありました。非科学的特訓で体と心を随分鍛えられました。心の鍛えられ方がまだ足りなかったのか、2年生秋の郡新人戦では他のすべての部が優勝する中で男子バレー部だけが準優勝。

 ご本人の名誉のために、現在本校の保護者である先輩からは私は一度もたたかれたことはありません…。クモの件くらいです。(H)

 

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【むかしむかしEP3:中学校入学】020306

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 中学生男子は校則で丸刈りでした。直前に刈ると恥ずかしいということで、ほとんどが小5の夏休みには丸刈りにしていました。基本は5枚刈りです。在の島本床屋で切りました。田浦中学校の校則改正(長髪)は平成7年からです。

 入学式は昭和53年4月10日(月)、1組林田洋文先生、2組出水勇二先生、3組浜田由美子先生、4組太田篤洋先生。新入生は今の全校生徒数の倍近い137名でした。

 小学生にとって中学校は未知の世界。田浦小・小田浦小・海浦小・井牟田小の4校から知らない生徒が集まるし、先輩との上下関係は厳しいし(おちゃっかと思われると体育館や部室の裏に呼ばれるらしいとのウワサ)、今のように小中のなめらかな連結を図る取組もなく。私自身も長男で中学校の情報は全くなく、緊張感は今の6年生の比ではありませんでした。

 私の担任は柔道部顧問の太田先生、私は中学入学時に172㎝あったので、帰りの会後に教室を出る時、毎回のように「柔道部に入らんか。」と勧誘されました。

 中学生になって最初の中間テストの朝は、いつものように友達と体育館(今の武道場)でバスケットボールをして遊んでいました。ギリギリに教室に帰ると太田先生から「テストの朝は勉強せんばいかんと。」と随分怒られました。小学校は試験範囲も狭く、問題も簡単だったのでなめていました。感覚は小学7年生です。当然良い結果が出るはずもありません。身を入れて、なんとかなったのは2学期半ば過ぎでした。(H)

 

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【むかしむかしEP2:6年生】020305 

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 小学校の学校行事に「ウサギ狩り」がありました。私の父が猟銃と罠の免許を持っていたので、実は学校からの依頼で事前に山に入ってウサギを準備し、ウサギ狩り当日の朝から山に放っていました。私は今年のウサギ狩りで収穫があるかどうかを前日までに知っていたので、個人的には早起きが大変な行事くらいの感覚でした。6年生の時は家の小屋にウサギがいませんでした。今年は収穫無しだと思っていたのですが、当日タヌキが捕れました。仕込み無しでしたので本当に驚きました。

 6年生の日本シリーズ巨人VS阪急は先生と一緒に教室で試合を観ました。なんとおおらかな時代。ダイエーホークス創設以前、パリーグのチームの試合中継は日本シリーズくらいでしか観ることがないので、基本は全員がジャイアンツ応援団。野球と言えば東京読売巨人軍でしたが、この時期のハンドベースボールでは、みんなが阪急ブレーブス山田久志投手のアンダースローを真似していました。

 田浦は野球・ソフトボールの盛んな土地柄です。夏休みには地区対抗のソフトボール大会も行われ、夕方は小学校の運動場に集まって練習をしていました。

 3月、いよいよ6年間の小学校生活も終わりです。卒業式の群読の始まりは「昭和53年3月23日、喜びのこの日(代表)、僕たち(男子)、私たちの(女子)、卒業式!(全員)」。私の担当は音がかっこいいので選んだ「寒風を吹き飛ばすように!」、次の友達が「空高く舞い上がった、凧あげ大会!」と続けます。我ながらよく覚えているなと思います。

 余談ですが、高学年の頃は恐ろしく高く飛ぶ三角形のゲイラカイトが大流行しました。凧あげも今ではほとんど見かけなくなった風景です。(H)

 

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【むかしむかしEP1:小学校】020304

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 私は宮ノ後に3人の仲の良い友達(たけちゃん、よっちゃん、みきやくん)がいたので、主な遊び場は阿蘇神社周辺や近隣の山の中でした。小学生の頃は山の中に何カ所か基地を作って遊んでいました。近所には他にも同級生はいたのですが、隣の教室に入ってはいけない決まりがあったので疎遠になります。遊び相手はほとんどが同じクラスでした。

 横居木にも分校(昭和44年廃校)の近くに仲の良い平松くんがいたので、棒を持って草を払いながら、最短距離の山越えで歩いて遊びに行っていました。横居木に着いてから一緒にゴレンジャーを見た覚えがあるので、随分朝早く家を出ていたんだと思います。さすが小学生は行動力があります。

 町方面では、ひでほくんの家によく遊びに行っていました。庭のさるすべりの木からすべっこけました。ひでほくんとは保育園から大学までの18年間を同じ学校に通いました。随分会っていませんが、一番長い付き合いです。

 5・6年担任の室村一成先生には、昼休みになると一緒に運動場でもらいました。近年は、昼休みもノートチェックや生徒対応をされている先生方が多く、ゆとりのなさを感じます。よくやったのは「ピンポン」、「ひまわり」、「宝島」、「でこ」、「つなぎ鬼」、「はりつけ」など。「つなぎ鬼」流行の頃は、走るのが苦手だったので大変でした。

 当時はスーパーカーブームだったので、モーターの入った車のプラモデルも流行しました。漫画雑誌は「チャンピオン」から「ジャンプ」へ移る人が徐々に増えてきました。

 授業のことは、2年生の音楽の時に金子先生が歌った「通りゃんせ」が怖すぎて泣いた友達がいたこと、5年生の音楽の時に室村先生が教室に入るなり「ジミー・カーターがアメリカ大統領に当選した。」と言う話をされたことを覚えています。(H)

 

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【ブログ書かれますか?】020303

 「ブログを毎日更新されている校長先生がいるらしいのですが、校長先生も書かれますか。」松橋中に異動したN先生の一言。本校職員はなかなか厳しい要求をしてきます。頼まれ事は試され事、「余裕たい。」たいていの事にはそう返事をするようにしています。

 HPの閲覧数をみると開設からの5年間で40973回、1日平均22回程度でした。田浦中出身者である自分にしかできない取り組みはないかと考えていましたので、ホームページや学校だよりを使った情報発信に力を入れることにしました。

 学校だよりは令和元年度からは毎月2回以上発行、ブログは毎日更新、今日で558話を数えます。研究発表の場や、地域の方との会合、来校者に見本を配り、年賀状にも案内を入れ、芦北町立田浦中学校のHPを読んでくださいと話してきました。その成果もあり、今朝の閲覧数が113836回。今年度の1日平均閲覧数は188回。ずいきのこうきでした。最近は毎日PTA数の約3倍の閲覧があり、大変感謝しています。

 休校中なので、明日から「むかしむかし」を連載します。私は、さくらももこさんと同じ年の生まれなので、時代の空気はテレビで「ちびまる子ちゃん」を見ていただくとよくわかります。あくまでも私の視点で、同級生135人を代表した記憶ではありません。保護者の皆さんの「自分たちもそうだった。」という分かれ目は何歳くらいの方でしょうか?記憶違いも多々あるかと思いますが、昔話はそんなものと軽く流してお読みください。(H)

 

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【デマ】020302

 今のところ、今日から15日(日)まで臨時休校です。27日(木)の報道を受けて、帰り道に給食の代わりのカップ麺を買いに量販店に行きました。すると、駐車場は車でいっぱいです。中に入るとみんながトイレットペーパーとボックスティッシュを手にしています。トイレットペーパー売り場もレジも人でいっぱい。何事か?と思っていると、保護者のKさんに会いました。「トイレットペーパーとティッシュがなくなるというデマがSNSで流れている。」とのことでした。Kさんは「デマ」という認識があり、別なお買い物でしたが、ほとんどの人のカートには一人あたり制限のあるトイレットペーパーとボックスティッシュが入っていました。子どももたくさんいました。複数で買いに来たようです。自宅用ばかりでなく、買いに来ることができないじいちゃん・ばあちゃんちの分、兄弟の分となるんでしょうね。レジの横には購入制限を超えた個数を買おうとして回収された分がたまっていました。ネットを見ると「トイレットペーパー、デマ」という記事が大きく載っていました。熊本県の人が特に騙されているようです。

 デマゴーグはどこの誰でしょう、「マスクの材料に紙が回収される」ということが根拠のない根拠のようです。手持ちのマスクの箱を見ると素材は「本体・フィルタ部…ポリプロピレン・ポリエチレン」、「耳ひも部…ナイロン・ポリウレタン」という表示がありました。使い捨てマスクは「紙」製ではないようです。

 いや、よく読むと下の方に「外箱…紙」という表示が。回収された紙製品は「外箱」になるのかと大笑いです。デマです。(H)

 

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