校長ブログ「秘密の部屋」

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【むかしむかしEP3:中学校入学】020306

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 中学生男子は校則で丸刈りでした。直前に刈ると恥ずかしいということで、ほとんどが小5の夏休みには丸刈りにしていました。基本は5枚刈りです。在の島本床屋で切りました。田浦中学校の校則改正(長髪)は平成7年からです。

 入学式は昭和53年4月10日(月)、1組林田洋文先生、2組出水勇二先生、3組浜田由美子先生、4組太田篤洋先生。新入生は今の全校生徒数の倍近い137名でした。

 小学生にとって中学校は未知の世界。田浦小・小田浦小・海浦小・井牟田小の4校から知らない生徒が集まるし、先輩との上下関係は厳しいし(おちゃっかと思われると体育館や部室の裏に呼ばれるらしいとのウワサ)、今のように小中のなめらかな連結を図る取組もなく。私自身も長男で中学校の情報は全くなく、緊張感は今の6年生の比ではありませんでした。

 私の担任は柔道部顧問の太田先生、私は中学入学時に172㎝あったので、帰りの会後に教室を出る時、毎回のように「柔道部に入らんか。」と勧誘されました。

 中学生になって最初の中間テストの朝は、いつものように友達と体育館(今の武道場)でバスケットボールをして遊んでいました。ギリギリに教室に帰ると太田先生から「テストの朝は勉強せんばいかんと。」と随分怒られました。小学校は試験範囲も狭く、問題も簡単だったのでなめていました。感覚は小学7年生です。当然良い結果が出るはずもありません。身を入れて、なんとかなったのは2学期半ば過ぎでした。(H)

 

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【むかしむかしEP2:6年生】020305 

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 小学校の学校行事に「ウサギ狩り」がありました。私の父が猟銃と罠の免許を持っていたので、実は学校からの依頼で事前に山に入ってウサギを準備し、ウサギ狩り当日の朝から山に放っていました。私は今年のウサギ狩りで収穫があるかどうかを前日までに知っていたので、個人的には早起きが大変な行事くらいの感覚でした。6年生の時は家の小屋にウサギがいませんでした。今年は収穫無しだと思っていたのですが、当日タヌキが捕れました。仕込み無しでしたので本当に驚きました。

 6年生の日本シリーズ巨人VS阪急は先生と一緒に教室で試合を観ました。なんとおおらかな時代。ダイエーホークス創設以前、パリーグのチームの試合中継は日本シリーズくらいでしか観ることがないので、基本は全員がジャイアンツ応援団。野球と言えば東京読売巨人軍でしたが、この時期のハンドベースボールでは、みんなが阪急ブレーブス山田久志投手のアンダースローを真似していました。

 田浦は野球・ソフトボールの盛んな土地柄です。夏休みには地区対抗のソフトボール大会も行われ、夕方は小学校の運動場に集まって練習をしていました。

 3月、いよいよ6年間の小学校生活も終わりです。卒業式の群読の始まりは「昭和53年3月23日、喜びのこの日(代表)、僕たち(男子)、私たちの(女子)、卒業式!(全員)」。私の担当は音がかっこいいので選んだ「寒風を吹き飛ばすように!」、次の友達が「空高く舞い上がった、凧あげ大会!」と続けます。我ながらよく覚えているなと思います。

 余談ですが、高学年の頃は恐ろしく高く飛ぶ三角形のゲイラカイトが大流行しました。凧あげも今ではほとんど見かけなくなった風景です。(H)

 

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【むかしむかしEP1:小学校】020304

 遠い昔、遙か彼方の田浦で…。

 私は宮ノ後に3人の仲の良い友達(たけちゃん、よっちゃん、みきやくん)がいたので、主な遊び場は阿蘇神社周辺や近隣の山の中でした。小学生の頃は山の中に何カ所か基地を作って遊んでいました。近所には他にも同級生はいたのですが、隣の教室に入ってはいけない決まりがあったので疎遠になります。遊び相手はほとんどが同じクラスでした。

 横居木にも分校(昭和44年廃校)の近くに仲の良い平松くんがいたので、棒を持って草を払いながら、最短距離の山越えで歩いて遊びに行っていました。横居木に着いてから一緒にゴレンジャーを見た覚えがあるので、随分朝早く家を出ていたんだと思います。さすが小学生は行動力があります。

 町方面では、ひでほくんの家によく遊びに行っていました。庭のさるすべりの木からすべっこけました。ひでほくんとは保育園から大学までの18年間を同じ学校に通いました。随分会っていませんが、一番長い付き合いです。

 5・6年担任の室村一成先生には、昼休みになると一緒に運動場でもらいました。近年は、昼休みもノートチェックや生徒対応をされている先生方が多く、ゆとりのなさを感じます。よくやったのは「ピンポン」、「ひまわり」、「宝島」、「でこ」、「つなぎ鬼」、「はりつけ」など。「つなぎ鬼」流行の頃は、走るのが苦手だったので大変でした。

 当時はスーパーカーブームだったので、モーターの入った車のプラモデルも流行しました。漫画雑誌は「チャンピオン」から「ジャンプ」へ移る人が徐々に増えてきました。

 授業のことは、2年生の音楽の時に金子先生が歌った「通りゃんせ」が怖すぎて泣いた友達がいたこと、5年生の音楽の時に室村先生が教室に入るなり「ジミー・カーターがアメリカ大統領に当選した。」と言う話をされたことを覚えています。(H)

 

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【ブログ書かれますか?】020303

 「ブログを毎日更新されている校長先生がいるらしいのですが、校長先生も書かれますか。」松橋中に異動したN先生の一言。本校職員はなかなか厳しい要求をしてきます。頼まれ事は試され事、「余裕たい。」たいていの事にはそう返事をするようにしています。

 HPの閲覧数をみると開設からの5年間で40973回、1日平均22回程度でした。田浦中出身者である自分にしかできない取り組みはないかと考えていましたので、ホームページや学校だよりを使った情報発信に力を入れることにしました。

 学校だよりは令和元年度からは毎月2回以上発行、ブログは毎日更新、今日で558話を数えます。研究発表の場や、地域の方との会合、来校者に見本を配り、年賀状にも案内を入れ、芦北町立田浦中学校のHPを読んでくださいと話してきました。その成果もあり、今朝の閲覧数が113836回。今年度の1日平均閲覧数は188回。ずいきのこうきでした。最近は毎日PTA数の約3倍の閲覧があり、大変感謝しています。

 休校中なので、明日から「むかしむかし」を連載します。私は、さくらももこさんと同じ年の生まれなので、時代の空気はテレビで「ちびまる子ちゃん」を見ていただくとよくわかります。あくまでも私の視点で、同級生135人を代表した記憶ではありません。保護者の皆さんの「自分たちもそうだった。」という分かれ目は何歳くらいの方でしょうか?記憶違いも多々あるかと思いますが、昔話はそんなものと軽く流してお読みください。(H)

 

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【デマ】020302

 今のところ、今日から15日(日)まで臨時休校です。27日(木)の報道を受けて、帰り道に給食の代わりのカップ麺を買いに量販店に行きました。すると、駐車場は車でいっぱいです。中に入るとみんながトイレットペーパーとボックスティッシュを手にしています。トイレットペーパー売り場もレジも人でいっぱい。何事か?と思っていると、保護者のKさんに会いました。「トイレットペーパーとティッシュがなくなるというデマがSNSで流れている。」とのことでした。Kさんは「デマ」という認識があり、別なお買い物でしたが、ほとんどの人のカートには一人あたり制限のあるトイレットペーパーとボックスティッシュが入っていました。子どももたくさんいました。複数で買いに来たようです。自宅用ばかりでなく、買いに来ることができないじいちゃん・ばあちゃんちの分、兄弟の分となるんでしょうね。レジの横には購入制限を超えた個数を買おうとして回収された分がたまっていました。ネットを見ると「トイレットペーパー、デマ」という記事が大きく載っていました。熊本県の人が特に騙されているようです。

 デマゴーグはどこの誰でしょう、「マスクの材料に紙が回収される」ということが根拠のない根拠のようです。手持ちのマスクの箱を見ると素材は「本体・フィルタ部…ポリプロピレン・ポリエチレン」、「耳ひも部…ナイロン・ポリウレタン」という表示がありました。使い捨てマスクは「紙」製ではないようです。

 いや、よく読むと下の方に「外箱…紙」という表示が。回収された紙製品は「外箱」になるのかと大笑いです。デマです。(H)

 

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