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「神の手」について

あなたはサッカー中体連の決勝戦のピッチにいます。

この試合で勝つために、3年間きつい練習にも耐えてきました。

 

スコアは0-0、緊迫した展開が続いています。

今、あなたは相手ゴールへドリブルで攻め上がり、パスをした後

もう一度ボールをもらおうと走り込みます。

しかし、味方のパスは、相手ディフェンスにカットされてしまいます。

プレー失敗かと思いましたが、次の瞬間、

カットされたボールがフワッとあなたの前方に上がっているではありませんか。

あなたは迷わず加速し、ボールに向かってジャンプします。

相手のゴールキーパーが慌てて、パンチングしようとジャンプしてくるのが見えます。

あなたとゴールキーパーは、空中で競り合います。

そして、あなたは、ゴールキーパーがボールを弾くより一瞬早く、ボールに触ることができました。

ボールは、誰もいないゴールに吸い込まれていきました。

ベンチをはじめ会場は大きな歓声に包まれました。

 

しかし、ボールに触ったのは、あなたの左手だったのです。

この時、あなたならどうしますか。

 

お気づきのように、

このエピソードは、

サッカーW杯1986年メキシコ大会

準々決勝イングランド対アルゼンチン戦で、アルゼンチン代表のマラドーナ選手が先制点を奪った時の様子です。

 

イングランドの選手は、ハンドをアピールしますが、

審判はゴールを認めました。

映像には、マラドーナ選手が手でボールをはたく様子がはっきり認められますが、試合はそのままアルゼンチンのリードで進められました。

そして、その4分後に、マラドーナ選手はドリブルで5人を次々と抜きさり、追加点をもたらします。

 

サッカーでは有名な出来事ですが、皆さんこのエピソードをどう思われますか。

私の道徳授業はほとんど「あなたならどうしますか」というタイトルなのですが、この話も教材にしてみたい話です。

 (以下の引用はいずれもウィキペディアから)

 

ーマラドーナは試合後のインタビューでこのプレーについて聞かれると、

「ただ神の手が触れた」と表現した。

 

この発言から「神の手」は伝説となったようです。

 

ーのちに、マラドーナは自伝においてハンドだったことを認め、

母国のテレビ番組では

「早く来て自分を抱き締めないと、審判が得点を認めないぞ」

とチームメイトに呼びかけたという裏話を明かしている。

 

私はサッカーのことはよくわかりませんが、

「5人抜き」の様子を見ると、マラドーナ選手はむろん上手なのでしょうが、

次々と抜かれていくイングランドの選手たちは、少し集中力を欠いて、

あれよあれよと抜かれているようにも見えます。

明らかに、直前の誤審が選手たちの心理に影響しているように思えます。

 

マラドーナさんは後年の雑誌インタビューでは罪の意識を否定し、こう語っているそうです。

 

ーワールドカップで勝てるなら手だって使うさ。審判が認めれば、それでゴールだ。

 

一方、当時イングランドの監督だったボビー・ロブソンさんは、こう語っています。

 

ーあれは誤審以外の何ものでもない。誤審はあり得ることで仕方がない。

 

そしてこう続けています。

 

ーだが私が許せないのは、それを神の手などと呼ぶ者の欺瞞だ。

 

私自身は、ロブソン監督に1票です。

中体連大会のために、生徒たちがどんなに努力してきたかを、

誰よりも知っていても、生徒たちがどんなに勝ちたいかをよくわかっていても、

生徒たちにはこう尋ねると思います。

 

「反則をしたのは、誰よりも自分がよくわかっている。

なのにガッツ・ポーズをして、勝利をつかんだとしても、

その勝利にどんな意味があるのか」

 

W杯と中体連では、訳が違うと言われるかもしれませんが、

「部活をするのは、何のためか」ということを考えるための問いです。

 

マラドーナさんが亡くなられました。

彼は私と同級生です。

もちろん、学校は違いますが。