テセウスの船と本校の伝統
「テセウスの船」という思考実験があります。
今年の初め頃、同じタイトルの竹内涼真さんのドラマがあっていましたが、
今日お話しするのは、パラドックスの方です。
パラドックスというと、
「逆説、ジレンマ。間違っているように見えるが、実は正しいこと、またその逆で正しいように見えるが、正しいと認識されないこと」と辞書に載っています。
(たとえば「私は嘘つきである」という人は、本当のことを言っているのかどうか分からなくなります。)
わかりにくいですが、まあ、ちょっと難しい、なぞなぞかとんちのようなものと思ってください。
その「テセウスの船」という思考実験は、次のようなものです。
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テセウスの船はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。
ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、
過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。(ウィキペディアによる)
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少しわかりやすく言うと、
テセウスさんが乗っていた船があって、
人々は、その船の古くなった部品や壊れた箇所を新しいものと交換しながら長く使っていました。
その交換や修理などを繰り返しているうちに、
元々船に使われていたすべての部品が新しいものに替わってしましました。
つまり、テセウスが乗っていた頃の船とは、すべての部品が入れ替わってしまいました。
さて、この船は元の「テセウスの船」と言えるかどうかという話です。
(私の考えた類題:創業以来30年、継ぎ足し、継ぎ足しで使っているおでん屋のだしは、創業時のものと同じといえるのか??)
人間の細胞も約60兆個あり、数か月で入れ替わってしまうという話もありますね。
すべての細胞が入れ替わったとしたら、
1年後の自分ははたして元の自分といっしょの人間だと言えるのでしょうか?
「テセウスの船」の話では、置き換えた古い部品をリサイクルして、
もう一隻の船を作ったら、そっちこそ「テセウスの船」ではないか?
という指摘もあり、では、それまでの元の船が「テセウスの船」でなければ、
何なんだろう?と、ちょっと訳が分からなくなってきます。
なぜこんなお話をしているかというと、
体育大会、文化発表会を終え、
(もちろん、今年度は新型コロナウィルスの影響で、様々な変更等がありましたが)
本校の伝統というものも、中身が変わって新しくなっていると感じたからです。
これまでの「東中ブランド」に加えて、
コロナに負けない「気づき・考え・実行する」生徒たちの力を実感しています。
12月には、校内ロードレース大会、生徒会選挙が待っています。
本校の伝統のさらなる進化を期待しています。