自分の葬儀での弔辞について
昨日はジョブズのスピーチについて書きましたが、
「◯辞」といえば、もう一つ、
葬儀や告別式での「弔辞」があります。
親族や友人、知人が、故人の思い出や惜別の思いを述べるものです。
スティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」には、
この弔辞に関する話が出てきます。
ある葬儀に参列して棺の中を見ると、
そこに横たわっているのは、なんと自分自身だったというのです。
そして、親族、友人、仕事関係や地域の知人が、
亡くなった私への「弔辞」を読むのです。
ここで筆者は読者に問いかけます。
「あなたは、これらの人たちに、あなた自身あるいはあなたの人生を
どのように語ってほしいだろうか?」
これは、私などはちょっとドキッとする問いかけです。
日頃は「他人によく思われようとばかり考えて生活するなんて、くだらない」
と思っていたとしても、
自分の人生が幕を閉じた後に、生前関わった人々から
「わがままで身勝手な人だった」
「だらしない人で、周りが迷惑した」
「これといって面白みのない、つまらない人だった」
などと言われて(思われて)いるのが分かっては、
安らかに眠れないかも知れません。
「では、私は自分への弔辞でどんなことを語ってもらえば、納得するのだろう?」
その問いへの答えには、その人の価値観が映し出されています。
その答えを人生におけるすべての行動の基準として、
今日という一日も生活しよう、と筆者は言います。
ちょっと難しいことで、
また、私などは時々反省しては、よく忘れてしまっていますが、
心に留めておきたい話です。
「私は何をもって憶えられたいのか?」
と、時おり自問自答してみるのも意味があるような気がします。