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校長室ブログ 今日の東天

関係ない人が応援したくなるチーム

少しの間、バスケット部の指導をしていた時期がありました。

バスケットの試合を引率すると、自分たちの前の試合か次の試合とかに審判をしなくてはいけませんでした。

惜敗して悔しかった試合の後にすぐに審判をしなくてはいけない時など、

目の前の試合より、さっきの自分のチームの試合のことが思い出されて、

「くそーっ、あの時選手交代しておけばよかった」とか、「あのプレーさえなかったら」とか、考えてしまい、上の空で笛を吹いていたこともありました。

 

ある大会で審判をした時のことです。

どちらのチームも知らないチームで、そんなに上手ではなく、いわば退屈な試合でした。

しかし、試合が進むにつれ、あることに気づきました。

赤いユニフォームのチームは、決して上手ではありませんでしたが、ベンチの選手の声援がいいのです。

一生懸命に応援しているのはもちろん、ミスが出た時は「ドンマイ」と声をかけたり、、シュートが入った時は、手を取り合って喜んだりしています。

一方の白いユニフォームのチームはというと、ベンチは静かでした。

うまくいかない時は「あ〜あ」みたいな感じで、いいプレーがあってもパラパラ拍手があるだけ。

作戦タイムの時、プレーしている選手が空けてもらったベンチに座って、監督さんの指示を聞いたりするのですが、

選手が補欠の生徒に「ポカリを早くくれよ!」みたいなことをイライラして言っている。

監督さんが注意すると「チェッ」みたいな感じで反応していました。

赤チームがみんな顔をくっつけるようにして、監督さんの持つ作戦ボードをのぞきこんでいるのとは、空気感が違いました。

私は審判なので、どちらのチームの肩を持つということはないのですが、

これは、白チームはやりにくい感じだな、負けちゃいそうだな、と少し思っていました。


ゲームが再開してしばらくして、私が吹いたわけではないのですが、ある判定があったとき、

白チームの選手が持っていたボールを近くにいた審判の私に返さず、床に叩きつけました。


私も気が長い方ではないので、心中穏やかではありませんでした。


試合は続き、それなりに接戦を展開していました。

赤チームの選手は審判からボールを手渡される時は、お辞儀をします。


これは、バスケの神様は赤チームに味方するだろうなとか思っていました。


私はいわばどちらのチームにも関係ない部外者ですが、なんとなく赤チームを応援したくなる感じでした。


試合が続き、結局は私の予想に反して、白チームが勝ちました。

ベンチの荷物を片付ける後輩になんか怒りながら、さっさと移動する白チームと、

何人かが泣きながらぐずぐずしている赤チームの選手を見て、

まぁ素早くベンチを空けた方がマナーはいいのですが、

それとは別に、私は

「試合に勝ったの白だけど、本当のバスケの勝者はどっちかな」と考えていました。

「バスケの神様が見ていたら、どちらのチームを褒めたかな」と。

関係ない人が自然と応援したくなるチームとは、素敵なチームなのではないでしょうか。

  

教科書の文章が読めているか

少し前ですが、「教科書の文章、理解できる? 中高生の読解力がピンチ」(朝日新聞デジタル)という記事がありました。

 

思考力とか判断力、表現技能とか言う前に、そもそも教科書の本文の言ってることがわかっているのか、そのレベルの日本語が通じているのか、という問題提起です。

 国立情報学研究所の新井紀子教授さんがこう指摘なさっています。

「基礎的な読解力がないまま大人になれば、運転免許や仕事のための資格を取ることも難しくなる」

そこで、新井さんは教科書や新聞記事などの文章を読んでもらい、意味や構造を理解できているかを調べる「リーディングスキルテスト」を実施されました。

2016年4月から今年7月にかけて、中高生を中心に全国で約2万4千人が受けた。問題は、コンピューターで受験者ごとに無作為に出題したとのことです。

以下にリーディングスキルテストの問題例を引用します。

実際の中学校の教科書の文章を題材にしてありますので、頭の体操として、読んでみられてください。

私は、すきっと頭に入ってこないものがありました。

この欄の最後に、正答と中高生の正答率も載せておきます。

教科書の文章の意味を理解する問題にしては、正答率は想像より低いように思います。

新井さんによると、「仕事の多くが人工知能(AI)に代替される時代が近づくなか、AIに負けない能力を身につけるには文章の意味を理解し、学び続けることが欠かせない」ともおっしゃっています。

日頃の授業でも、よりわかりやすい伝え方を心がけなくてはいけないと職員室で話をしようと思います。

 

【問題例 1】

以下の文を読みなさい。

幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。

1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

出典:東京書籍「新しい社会 歴史」

 

【問題例 2】

以下の文を読みなさい。

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

Alexandraの愛称は( )である。

①Alex

②Alexander

③男性

④女性

出典:開隆堂出版「Sunshine3」


【問題例 3】

以下の文を読みなさい。

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

オセアニアに広がっているのは( )である。

①ヒンドゥー教

②キリスト教

③イスラム教

④仏教

出典:東京書籍「新しい社会 地理」

 

【問題例 1】正答:異なる  正答率:中学生57%、高校生71%

【問題例 2】正答:①  正答率:中学生38%、高校生65%

【問題例 3】正答:②  正答率:中学生62%、高校生72%

5人の平均

アメリカのジム・ローンという人は、示唆に富んだ言葉をいくつも残しているようです。

 

「成功とは、普通のことを、並外れて上手くやることである」

など、イチロー選手が言いそうな言葉です。

 

「人生は必要より行動に応える。米にしても『必要だから収穫がある』のではなく、『種をまいたから収穫がある』のだ。『収穫が必要』なら、まず種をまかなければならない」

言い換えると、

「医者になる必要があるから医者になるのではなく、医者になるための努力をしたから医者になる」

ということではないでしょうか。

他の人の言葉で

「才能は行動をもって価値を生む」

という言葉も読んだ覚えがあります。

 

ローンさんの言葉に戻りますが、私が気になった言葉は

 

「あなたというのは、もっとも多くの時間を共に過ごすその5人の平均である」

という言葉です。

 

「類は友を呼ぶ」

「朱に交われば赤くなる」

などとよく言われますが、

「5人の平均」と言われると、ちょっとドキッとしませんか。

生徒の皆さんも、あなたの周りの5人をよく見てください。

 気の合う友達もいいですが、お互いに高め合う友達も必要でしょう。

 

ローンさんは、こんなことも言っていました。

「運命を一夜で変えることはできないが、あなたが進む方向を変えることは一夜でできる」

生活の方針を改めるのに遅すぎるということはないでしょう。

(これは6人組。そのうちの1人は他の5人の平均)



形容詞の人、動詞の人、擬音語・擬態語の人

「形容詞の人か、動詞の人か」という朝日新聞の論評を読んだことがあります。


「……亡くなった中曽根康弘元首相が、新党さきがけの代表幹事だったころの鳩山由紀夫元首相を『ソフトクリーム』にたとえたことがあった。

とかく甘めな言辞に対して『政治は、美しいとかキラリと光るとか、形容詞でやるのではなく、動詞でやるものだ』と注文をつけた。……」

なるほど、政治は口先の美辞麗句ではなく、行動が大切なのは、わかる気がします。

 また、文章はこう続いていました。

 「……小説というのは形容詞から腐ってくる、と言っていたのは作家の開高健だった。……」

「……政治においても形容詞(修飾語)は腐りやすいものだ。

とりわけ今の政権にはそれが目立つ。丁寧に、真摯(しんし)に、謙虚に……これらはどれも朽ち果てて、もはや言葉としての実体はなくしている。……」

 

「丁寧に、真摯に、謙虚に」

まぁ使い古されていますね。

私も形容詞や副詞の修飾語だけではなく、動詞を大切にしたいです。

学校現場では一般的に、「実践(行動)こそ大事にしよう」ということで、「共通実践」と言います。

ただ、私は擬音語・擬態語はよく使ってしまいます。

「ビシッと、サクサクと、ビューッと」

その後に必ず動詞を付けて話すこととしましょう。

リスを見習う

校長室に新しい机を買っていただきました。

今までの机は引き出しが一つ壊れていて、他の引き出しもスムーズに出し入れできない、歴史ある物でしたが、機能的な机がやってきて喜んでいるところです。

しかし、事務室の面々にもお手伝いいただきながら、机の上や引き出しの中身を引越しする際に、我ながらあきれたのは、その未整理と混乱ぶりでした。

ずっと探していて見つからなかった、お気に入りのボールペンが見つかったり、時間のせいか気温のせいかわかりませんが、数本の蛍光ペンとひっついて取れなくなった消しゴムがあったり、前々々任校で使っていた名札があったり、ホッチキスの針が4箱も5箱も発掘されました。

「きっちり貯めてしっかり整理。リスは集めた木の実を覚えやすいように整理することが判明(米研究)」という記事を読みました。以下、その記事を参考にして書きます。

 

その記事によると

「米カリフォルニア大学バークレー校の研究者は、キャンパス内で暮らしている45匹のリスを2年近く追跡調査した。

その間、ナッツ類(アーモンド、ヘイゼルナッツ、ピーカンナッツ、クルミ)を異なるパターンで与えて、リスがそれをどのように蓄えるのか観察した。

すると抜け目ないリスたちはそれまでと違う場所で餌を発見した場合、それを新しい場所に種類別、ときには大きさ別に隠すことが判明した。」

ということです。

どうも、私よりリスの方がしっかりしているようです。


また、「これは心理学者の言うチャンク化(情報の断片を類似性などの基準でより大きな情報に統合する記憶のプロセス)という技法に似ており、管理や記憶を容易にするやり方だ。」

 「リスは人が日用品を片付けるときと同じようにチャンク化を行なっているのかもしれません。みなさんも果物ならこの棚、野菜ならあの棚といった具合に仕舞いますよね。そうすれば、タマネギが必要なときいちいち台所の棚すべてを探さなくてもいいわけです。」

とも述べられています。

チャンクとは、例えば、たとえば数字の羅列「0120142857」にハイフンを入れて「0120-142857」とするだけで、フリーダイヤルの電話番号だと分かりやすくなるという具合です。

「わかること」は「分かること」、「分かること」は「分けること」とも言われます。

 

また、中3の国語教科書に載っている井上ひさしの「握手」という作品では、死期を悟ったルロイ修道士さんが「私」に、

「仕事がうまくいかないときは、この言葉を思い出してください。

 『困難は分割せよ』

 あせってはなりません。問題を細かく割って、一つ一つ地道に片づけていくのです。

 ルロイのこの言葉を忘れないでください」

と語りかける印象に残る場面が出てきます。

 

分ける、分割するということは、整理し理解することだけではなく、解決するうえでも大切なことなのかもしれません。

 

「握手」はこの本に収録されている短編です。

ナイン 

奇跡の数142857

先日、3年生の数学の授業を参観に行きましたら、杉本先生から、

「ちょうどいいところに校長先生がいらっしゃいました」とか言われてしまい、

「しまった!」と思ったのですが、時すでに遅し。

循環小数について尋ねられましたが、何のことかさっぱり分からず、お手上げでした。

その無念を晴らすために、今日は不思議な数字についてのお話です。

引用元は分からないのですが、おもしろい話です。

恐れ入りますが、以下引用です。

★★★★★★★

【なんとも不思議!奇跡の数 142857】


【142857】はとても不思議な結果をもたらす奇跡の数字です。

ご存知でしたか?


①答えの数字が循環!

【142857】この数字をそれぞれ1倍、2倍、…、6倍にして

みると

答えの数字は142857→285714→428571→571

428→714285→857142とグルグル循環しています。


142857×1=142857

142857×2=285714

142857×3=428571

142857×4=571428

142857×5=714285

142857×6=857142


②答えの数字になぜか9が並ぶ!

【142857】を7倍にしてみると9が見事に並びます。

【142857】を真ん中で2つに分けて足し算しても、9が並びます。

【142857】3つに分けて足し算しても9が並びます。


142857×7=999999

142+857=999

14+28+57=99


③数字が元に戻る!

【142857】を2乗します。

その結果として表れた数字を前半の5桁と後半の6桁の数字に分けて、

それを足し算すると

元の【142857】に戻っちゃうんです!


142857×142857=20408122449

20408+122449=142857

★★★★★★★

いかがでしたか。

奇跡の数の不思議さはもちろん、

これを最初に発見した人は、いったい誰なのでしょう?

すごい人だと思いませんか。

数学の世界では常識なのでしょうか?

杉本先生に確かめてみます。

 

選手推戴式での話

一昨日、中止になった郡市中体連大会の代替大会に向けて、選手推戴式を行いました。

その時の校長からの話です。

 

5月末、部活動再開を前に郡市中体連大会の中止の知らせがあり、

皆さんにお話をしたときは、とてもつらい気持ちでした。

皆さんはそれ以上につらい思い、悔しい思いをしたと思います。

しかし、部活動が再開して練習を頑張っている姿、

特に3年生が東中の伝統を引き継いでつないでいこうと、懸命に頑張っている姿を見て

とても嬉しかったです。

素晴らしい3年生だと誇りに思っています。

 

3年生最後の大会を前に、2つのことを話したいと思います。

 

まず、今回の大会、3年生が最後に力を発揮できる場が実現したことに感謝しよう、ということです。

いろいろな制約や条件があり、思うようにいかないこともあるかも知れません。

しかし、大会の運営に努力されている方々、

日頃から応援し、支えていただいている保護者、家族の方々、

そしてきつい練習をいっしょに頑張ってきたチームメイトのみんなに

感謝の心を持ってほしいと思います。

 

2つめは、部活動の目的と目標です。

牛深東中は、「なりたい自分になる、なくてはならない人になる」ための学校です。

部活動の目的も「なりたい自分になる、なくてはならない人になる」ことです。

今回の大会で、自分自身が、部活動を通して「なりたい自分」「なくてはならない人」に一歩でも近づいたと実感できたか、

最後の試合で納得できたかが大切なことです。

また、そのためには、練習の成果を発揮して、目標である勝利を全力で勝ち取ってください。

 

負けて泣かないでください。

勝って泣いてください。

 

皆さんの健闘を祈ります。

 

 

悪手を指さない

私の息子は中学時代からソフトテニスをしていました。

中学時代は、私は部活の保護者会長として、よく送迎や応援に出かけたものです。

私自身はテニスはよくわかりませんが、それでもテニスは「辛抱が大切なスポーツだな」という気がしていました。

息子たちがラリーの応酬でしびれを切らして、ミスショットをしてしまう場面をよく目にしたからです。

 

「負けないテニス―ドクターレイモーの凡ミス撲滅作戦 」(1980年)の著書がある、サイモン・レイモーさんは、こういうことを言っておられます。参考・引用「敗者のゲーム」を避ける知恵:賢く立ち回ろうとするより愚かな行いを避けるべし


「プロのテニスでは、ポイントの80%は勝ち取ったものだ。

アマチュアのテニスでは、ポイントの80%が失ったものなのである。

言い換えれば、プロのテニスは「勝者のゲーム」であり、結果は勝者のアクションで決まる。

アマチュアのテニスは「敗者のゲーム」で、結果は敗者のアクションで決まるのだ。

この2つのゲームは(根本的な性格から言って)まったく異なる。まさに正反対だ。」


レイモーさんは、アマチュアのプレイヤーが勝つためには、ミスを減らし、相手が自滅するのを待つのが得策だと考えました。


 

同じようなことを、将棋の元名人の米長邦雄さんは、著書「人間における勝負の研究」の中で述べられています。


「将棋で最善手を見つけることは、本当に大変なことです。

しかし、最善手を見つけることも大切ですが、それよりももっと大切なのが悪手を指さないことです。 」

「要するに、悪手の山の中を歩いているようなものが"人生"なのです。

こういう状況の中では、悪手を指さないことぐらい大切なことはない、という気さえしてきます。

そして、少なくとも現在の自分よりも悪くならない手、ちょっとでも向上する手なら、どんな手を指してもいい、という考えも浮かんできます。」

とまで言われています。

 

勝負強い人は、ファインプレイやミラクルショット、逆転ホームランを狙うのでなく、地味で堅実な積み重ねで辛抱しているのかもしれません。

そして、それは強い精神力、気持ちの強さを必要とするものでしょう。

世の中は、私の好きなプロレスのように、「ウエスタン・ラリアット一発でKO」とは、なかなかいかないもののようです。 

中国選手のバックハンド

昔から、中国の卓球は強かったですね。

その中国の卓球にまつわる、ある伝説を聞いたことがあります。

 

昔、卓球の中国選手は、フォアハンドは滅法強く、無敵だったそうです。

しかし(今ではそういうことはないと思いますが)、バックハンドは不得意で、大したことはなかったそうです。

では、どうすれば中国を倒せるか?

相手も考えます。

「中国選手のバックハンド側を狙って打てばよい。彼らにバックハンドを使わせるのだ」

打倒中国に燃える国々の選手たちは、徹底して相手のバックハンド側に球を返す練習をしました。

これで中国を倒す秘策はバッチリ。

「中国選手にバックハンドを打たせさえすれば、怖くない。彼らのバックハンドは恐れるに足らないのだ」

相手チームは秘策に自信を持って、試合に臨んだそうです。

しかし、試合結果は、やっぱり中国チームの圧勝に次ぐ圧勝。

あっという間に優勝してしまいました。

なぜでしょう?

相手チームが中国のバックハンド側に返せなかったのか?

いや、それは特訓の成果もあって、作戦どおりに返したそうです。

では、なぜ中国が勝ったのか。


それは、中国選手が不得意なバックハンドを打たなかったからです。

どういうことでしょうか。

 

そう、中国選手は、どんなにバックハンド側に飛んできた球も、素早くフットワークを使って回り込み、得意のフォアハンドのみで打ち返し、勝ち進んだのです。

 

せっかくの打倒中国の秘策も、その一枚上をいく中国選手の技術で、通用しませんでした。


苦手や欠点を治す、修正することも必要でしょうが、時には、苦手や欠点をものともせぬように、得意なところをさらに磨くことも作戦なのでしょう。

 

 

白みはじめた空と電柱の思い出

大雨の被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

熊本地震の前震の時、私は益城町の自宅に帰宅中でした。

学校のことや生徒、職員、それぞれのご家族やの安否が心配でしたが、私は自宅や避難した実家の両親のことがあり、益城の自宅に留まり、不安の中夜を明かしました。

その間、電話やメール等で、校長先生はじめ他の職員と連絡を取り合って、大変お世話になりました。

学校では、グラウンドいっぱいの車が避難してこられ、町当局の方と協力して避難所を開設したということでした。


夜が明けるころに、とにかく今日は勤務先の学校に向かおうと玄関を出た私は、ある光景を目にして驚きました。

家の前の道路の電柱に人が登っていたのです。

電力会社の方でしょうか、停電の復旧作業をされているようでした。

白みはじめた空と、電柱の上で一心に作業されている方の姿を見て、

この方は、いつから作業に取り組んでおられるのだろうか、昨夜は寝られたのだろうか、と疲れた目をこすりながら思いました。

突然の災害の衝撃と不安で疲れていた私の心に、何か小さな灯がともったような気がしました。

私もこの社会の中で、自分の持ち場で、自分のできる仕事を精一杯やらねばと思った朝でした。

 

昨日、本校区でも、道路の通行の安全のために作業されている方を何か所でも会いました。

また、作業の痕跡があり、そのおかげで通行できるようになっている場所がいくつもありました。

目立たなくとも、社会の安全な生活のために尽力されている皆さんに、心から感謝したいと思います。

 

以前ご紹介しました、コロナに負けないためにたたかっている人々に贈る歌声です。

大雨のお見舞い申し上げます。学校の状況等について。

今回の大雨の被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

土曜日の安否確認の電話には、大変な状況の中、ご対応いただき、ありがとうございました。

避難されたり、家屋や家財を守るためにご家族、地域の方をあげて作業をされている方々もいらっしゃいます。どうぞ安全第一にお気をつけください。


この欄を使って昨日の学校の様子をお知らせさせていただきます。

本校では全職員で校内の状況を確認し、必要な作業を行いました。

給食車の駐車スペース付近に小さな土砂崩れが起きており、給食の搬入に支障が考えられましたので、ここを最優先に可能な限り土砂を撤去しました。

グラウンド東側の土砂崩れは、市教委の手配で業者の方が見に来られ、土砂撤去とネットの修理の手配をしていただきました。

また、小多先生を先頭に、川が氾濫し土砂が流入したプールの入口付近、更衣室、トイレ等の土砂撤去・清掃を行いました。幸い、プールの中の水には被害はありませんでした。

養護の西田先生を中心に、東小の室内の清掃・消毒のお手伝いにも向かいました。

被害の大きかった東小では、児童が安全に登校できるよう、校長先生以下、先生方に加えて保護者の方、地域の方がずぶ濡れになりながら、作業されていました。頭が下がりました。

また、あわせて、各学年から1名の先生が出て、被害の大きかったご家庭、地域にお見舞いと状況の確認のために校区内を巡回してもらいました。

生徒や保護者の方とお会いできたところでは、お話もできました。

その報告を受け、東小、スクールバス運行会社と連携しながら、教育委員会とスクールバスの運行計画について相談をしました。

午後、教頭先生たちとスクールバスの経路をはじめ、校区内を巡回しました。

各所の大変な状況に心が痛みました。

バス経路を確認後、スクールバスの運行について、全家庭にご連絡しました。


今後も気象情報や校区の状況に注意していきます。保護者の皆さん、学校からの連絡に引き続きご注意ください。また、状況の変化等がありましたら、お知らせください。

まだ強い降雨の予想がされていますので、どうぞ安全に十分ご留意ください。

引き続き、どうぞよろしくお願いします。

 

レゴタイプとジグソータイプ

私の息子は幼い頃、レゴブロックに夢中になった時期がありました。

サンタさんからもらった「ウエスタン・バイソン砦」というセットをずっとつくっていました。


東京都初の中学校の民間人校長だった藤原和博先生もおっしゃってますが、レゴが得意なタイプの人とジグソーパズルが得意なタイプの人がいるようです。


そう考えると、息子はレゴタイプかもしれません。

私はというと、年齢もあって、一つの完成型に向けてピースを組み合わせていくような、ジグソーパズルはちょっと根気が続かずムリのように思います。

 

宇宙飛行士の選抜試験に、真っ白の大きなジグソーパズルを数人で長時間かけて作り上げる試験があるそうですが、私には全然ムリだと思いますね。

 

レゴでも、何をつくってもいいからつくってごらん、というのならやれるかもしれません。
人それぞれの得意な思考や性格、適性があると思いますが。


ただ、文芸評論家で俳人でもある千野帽子さんの、このような言葉を読んだことがあります。


私たちは、なにかの「原因」が説明されると「わかった」気になってしまう。「説明が正しいかどうか」よりも「説明があるかどうか」のほうを重視してしまうことがある。ほんとうは「説明があるかどうか」よりも「説明が正しいかどうか」よりも「その問いが正しいかどうか」のほうが大事だ。(千野帽子) 


どういう問いを立てるか?

私たちの取り組んでいる、気づき・考え・実行する学校生活でも、最初の気づきの訓練によって、課題、問いの質が変わってくるではないでしょうか。

生徒の皆さんの気づく力の成長を期待しています。

 

 

レゴブロック ウエスタン・バイソン砦 

 

 

空気を変える

私は、生まれつき?あまのじゃくな性格だと思います。

他の人がおいしいと言えばそうでもないやと言い、面白いねと言えば、つまんないねと言う感じです。

つまり、人がAだと言えばBと言いたくなるオニが心の中にいるのです。

 

 

それで、長らく「空気を読みなさい」とかアドバイスされると、逆に逆らったりしたくなっていました。

山本七平さんの「空気の研究」を読んでも、「空気を読む」とは、付和雷同、長いものに巻かれるといった打算的な印象があり、日本人独特のあまり好きでない傾向だという気持ちが強くなっていました。

しかし、この頃、経済学者の柳川範之さんがこう言っておられるのを読んで、なるほどなと思いました。

「周りの空気を読んで行動するだけではなくて、むしろ周りの空気を変えていくような積極的な行動が、これからは大事だと思うのです。

特に、皆が悲観的になりがちな今の日本社会においては」


「空気を読む」のではなく、「空気に逆らう」のでもなく、「空気を変える」のならいいですね。そう納得しました。

 もっと早くそう思えるようになってたら、よかったと思います。

 

 

頼まれごとについて考える

以前、私が生徒会の担当をしていた頃の話です。

その日、私は全校集会の準備をしていました。

準備が直前でバタバタしていたのですが、1本のマイクの音が入りません。

どうやら、電池が切れているようです。

事務室に電池を取りに行きましたが、あいにく合う大きさの電池がなく、事務室の先生も不在でした。

困った私は、一緒にいた後輩の先生に頼みました。

「近くのセブンイレブンで、合う電池を買ってきて。急いでね」

ハイ、わかりました、と後輩は走っていきました。

しばらくすると後輩は息を切らして帰ってきました。

そしてこう言いました。

「すみません。セブンでは電池は売り切れでした」

それだけで、後輩は手ぶらでした。

私は少し残念でした。

100mほど先には、もう一軒コンビニがあるのにな、見に行ってくれるとありがたかったな、

と思いました。

まあ、準備が遅かった私が悪いのですから。

その日の全校集会は、1本マイクが足りませんでしたが、なんとかカバーして進めました。

 

実業家の前刀禎明さんが、少し似たようなことをおっしゃっていました。

細かい部分は忘れましたが、ある日、新入社員に20ページほどの会議資料を40人分コピーするように指示したそうです。

するとその新入社員は、1ページ目を40枚、2ページ目を40枚と、ソートすることなしにコピーしてきました。

これでは、1人分ずつページ順に並べ替えなくてはなりません。

前刀さんは、「コピー機の使い方をよく知らなかったのかな」と思い、なぜソートしなかったのか尋ねました。

すると、その新入社員は、キョトンとしてこう答えたそうです。

「だって、ソートするようには言われなかったので」

今から40人で行う会議に必要な資料だとわかるはずなのに、と前刀さんはがっかりしたそうです。

ほかのときに、また前刀さんは別の新入社員に、やはり20ページほどの会議資料を40人分コピーするように指示しました。

頼んだ後に、「あっ、ソートしなさいと言わなかったな」と思ったそうですが、間に合いません。

すると、今度の新入社員は、ソートしてそろえた資料を手にやってきて、

「綴じるのは左上1か所でいいですか」と聞いてきたそうです。

この後、どちらの新入社員さんに大事な仕事を頼むようになったか、おわかりかと思います。

 

講演をよくされている中村文昭さんという方は、

「頼まれごとは、試されごと。

人からものを頼まれたら、試されていると思って相手の予想を上回るように努力する」

と言われています。

ちょっと自分の頭で相手の意図やニーズ、気持ちを考えて行動できる人は、いいなあと思います。

 

打席に立つことのできるワクワク

この数日、少し早く帰宅しましたら、KABの夕方のニュースで、高校の野球部の紹介が毎日放送されているのをたまたま見ることができました。

一昨日は天草拓心高校、昨日は牛深高校の番でした。

本校の卒業生も出てくるかな?とテレビに近づいて、目を皿のようにして見てみると、ブラウン管?いや液晶モニターの中で先輩たちも笑顔で登場し、嬉しかったです。

高校野球は、春の選抜に続き、夏の甲子園大会も中止となり、残念だったことでしょうが、

代替の県大会の開催が決まり、どの高校球児たちも、野球ができることを楽しんでいるようでした。

さて、中学校も中体連の代替試合が計画され、本校でも元気に練習に取り組んでいるところで、放課後の学校に生徒たちの大きな声が響いているところです。

 

以前、コピーライターの糸井重里さんのツイッターで目にした言葉です。


「打席に立ったとき、三振するのも情けないゴロを打ってアウトになるのも、かまわない。

見逃し三振さえも許してしまおう。

いけないのは、ただひとつ『打席に立っていることがよろこべないこと』だ。

その打席に立ちたくて目を輝かせたのではなかったのか。」


参加することに意義があるとは、オリンピックについてよく言われることですが、結果ではなく、打席に立つチャンスを与えられたことに、まずワクワクしたいですね。

 


今年の一学期はあと一か月あります。

臨時休校の時のことを考えると、学校で友達に会えて、授業を受けられることにもワクワクを忘れないようにしたいものです。 

こちらのKABのホームページから、紹介の様子がご覧になれます。

https://kab-koshien.jp/

和顔愛語 先意承問(わげんあいご せんいじょうもん)

「和顔愛語(わげんあいご)」とは、私が以前お世話になった校長先生が、常におっしゃっていた言葉です。

生徒指導の日々の対応で、ついつい眉間にしわを寄せているわれわれ職員を指導される際に、自ら明るい笑顔で語られていました。

昨日、「言葉の温度」という本のお話をしましたので、この「和顔愛語」を思い出し、以前に調べたメモをもう一度読み返したところです。

以下、そのメモをもとに書きます。

 

「和顔愛語」という言葉は、『大無量寿経』というお経の中にあるそうです。

「和顔愛語」とは、「和やかな顔と思いやりの言葉で人に接」すること。

「辛いときや嫌なことがあったとき、愚痴をこぼしたくなるとき、そんなときこそ、まず自分から笑顔と優しい言葉で周りの人に接する姿勢」が「和顔愛語」ということです。

しかし、私は特に気分が顔に出やすいタイプで、いつも周囲に迷惑をおかけしているので、いざ自分自身が「和顔愛語」を実践するとなると、簡単ではありません。

ところが、「和顔愛語」には「先意承問」(せんいじょうもん)という言葉が続くそうです。

「先意承問」とは、「先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただす」ことだそうです。

「和顔愛語」は、この「先意承問」とセットになってこそ、日常で実践できるのかなと思いました。

相手に「笑顔になってほしいのならば、まずは相手に笑顔を見せる。」

「優しい言葉をかけてほしいのならば、まずは相手に優しい言葉をかけてあげる。」という行動が「和顔愛語 先意承問」なんだなと思います。

私も少しずつでいいから、まずは自分から…この心がけを持ちたいと思いました。

(参考 あるお寺のブログ「みんなの心をまぁるくする魔法の言葉~和顔愛語~」)

 

https://plaza.rakuten.co.jp/miyahyon/diary/201507060001/ から引用

言葉の温度

6/27(土)のYahoo!ニュースで

「ブラジルのジャイル・ボルソナロ(Jair Bolsonaro)大統領は26日、新型コロナウイルスの感染が広がっている間は公共の場でマスクを着用するよう命じた判決を不服として控訴した。」

という記事がありました。

欧米で人前や街中でマスクをする習慣がないのは、口元の表情等が見えないと感情が読めずコミュニケーションがないからとか、不審者に見えるからとか、言われていました。

それでも、このごろのニュース等では、欧米でもマスクをしている人を多く見かけるようになりました。

なのに、この大統領はなぜ、裁判所を相手取ってまでマスクをしないのでしょう?

 

さて、今日は「言葉の温度」についてのお話です。

(同タイトルの韓流ドラマがあるそうですが、今日は私たちが日頃使っている言葉についてのお話です。)

以下、フリーアナウンサーの馬場典子さんの著書『言葉の温度 話し方のプロが大切にしているたった1つのこと』(あさ出版)の書評「アナウンサーが教える、状況に応じた伝え方のコツ」を参考にしています。

馬場さんは、「言葉には“温度”があります」と主張しています。

 

以下、書評からの引用です。

……(馬場さんは)“言葉の温度”は話し手の“心そのもの”。温もりのある言葉が相手の心に寄り添うように、熱い言葉が相手の心に火をつけるように、こちらの心が相手に届き、言葉が相手に伝わるというのです。一方、冷たい言葉は相手の胸に突き刺さってしまうものでもあります。……

 

「ふわふわことば」「ちくちくことば」など、言葉と人権・人間関係や言語環境に関する教材等もありますが、「温度」というたとえを使われているのが、とてもわかりやすく感じられました。

また、馬場さんはこう書かれています。

 

「温度は心の表れ。のはずですが、心だけでは、相手に届くときには冷めてしまって、きちんと伝わらない……なんてこともあります。

言葉の温度は、心を素(もと)にしながら、声のトーンや大きさ・話し方や聞き方・言葉遣い・ニュアンス・間・表情など、コミュニケーションの“総合力”なのです。」

 

私も反省して、「言葉が相手に届くときには冷めてしまった」ということにならないようにしたいと思います。

ここで冒頭のマスクのことにかえりますが、

いくらマスクをしているからといっても(もごもご何を言っているかわからないのは論外ですが)、

声のトーンや眼などマスクで隠れていない部分の表情で、温度を伝えられるようにしたいと思ったところです。

 

坂村真民さん

熊本朝日放送でよく目にしますが、「こどもの詩コンクール」の作品が募集されています。

第一回(平成二年)では、詩人の坂村真民さんが審査をされたそうです。

坂村さんは、熊本県荒尾市のご出身で、ご存知の方も多いと思います。

仏教の影響を受けられた詩人で、愛媛県に坂村真民記念館があります。

「念ずれば花ひらく」という言葉が有名ですね。この書は大型ショッピングセンターの入口に掲げてあったりします。

この言葉は詩の冒頭でして、後はこう続きます。

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

 

『坂村真民一日一言』(致知出版社)という本などから、いくつかの詩を紹介しtrみます。


  美 

うごいているから

うつくしいのだ

 

  願い

花になろう 

実になろう

喜ばれる

人間になろう

 

  風

 ともに

あゆめば

ひかる

 

  ひとりひそかに

深海の真珠のように

ひとりひそかに

自分をつくってゆこう

 
  天才と本物

天才にはそう誰にでもなれないが

本物には

努力次第でなれる 

 

 

私の好きな詩は、これです。進路実現を前にした3年生に贈ったこともあります。

 

花は一瞬にして
咲くのではない。

大地から芽から出て
葉をつくり、

葉を繁らせ、成長して、
つぼみをつくり
花を咲かせ、
実をつくっていく。

花は一瞬にして
咲くのではない。
花は一筋に咲くのだ。

 

一筋に咲くように、道を歩いていきたいものです。

 ↓タップすると本の紹介が見られます。

坂村真民一日一言 人生の詩、一念の言葉

(つづき)ケロちゃん危機一髪!

(「ブタとブス」のお話のつづき)

実は、昨日のお話と同じことを言っているマンガがあります。

以前、中学校の国語の教科書(教育出版)にも載っていたマンガです。

私のおすすめの本「プチ哲学」佐藤雅彦 から引用します。

まず、最初のページ。

次のページはこれです。

これは、枠組み(パラダイム)についてのマンガです。

著者の佐藤さんはこう書かれています。

「私たちは、ある枠の中でものごとを見ています。

例えば、この漫画の右頁(注:最初のページ)では、乱暴者のカエルが、ケロちゃんを池に突き落とそうとしていますが、左頁(注:次のページ)を見ると、彼は落下するリンゴからケロちゃんを救おうとしています。

このように、見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます。

私たちがものを見ている時には、必ずある枠組みからものを見ているということを知っていなくてはいけません。」

 

見る枠組みを広くして、落ちてくるリンゴまで見えるかどうかで、たしかに状況の解釈は変わってしまいますね。

 

昨日のお話ですと、 対向車の女性はいわば親切で「ブタ!」と叫んで危険を教えてくれたのでしょう。

それなのにポルシェの男は、目の前の事実しか見えないですから(それも仕方ないでしょうが)
突然ののしられたと思った。

そこで普通にカッとしてののしり返した。

もし、枠組み(パラダイム)が柔軟な状態だったら、女性の異様な叫び声を聞いて「何かあった」とピンときたかもしれないです。

ののしられたと思ったけれど、実はそれは命がけの警告だったんですね。

 

「パラダイムシフト」と言われますが、ガラッと発想を転換してとらえ直すことも必要かもしれません。

新型コロナウイルスとの「戦い」が「共存」になり、また、当たり前が当たり前でなくなり、逆に当たり前でなかったことが当たり前になるかもしれません。社会でも、学校でも、ですね。

「ブタとブス」のお話(つづく)

 ちょっと品のないタイトルで失礼いたします。

以下の出典からの孫引きで恐縮です。

 

出典: J・バーガー「パラダイムの魔力」 日経BP

むかしむかし、あるところに山荘をもっている男がいた。
毎週土曜日になると愛車のポルシェで自宅から山荘へ向かう。

途中には見通しの悪いカーブやガードレールの無い絶壁など、

危険な箇所がいくつもある。

しかし、男はそんなことは気にしなかった。

車の性能はすばらしいし、運転には自信があるし、

目をつぶっても走れるほど道を良く知っていた。

ある晴れた土曜日の朝、男はいつものようにポルシェを飛ばして、

山荘まで向かう道を走っていた。

その時!反対車線の急カーブの陰から1台の車が、ハンドルを切り損ねたように飛び出してきた。

崖から落ちる~と思った瞬間、道路すれすれに弧を描き、勢い余って反対車線に入り、あわててハンドルを切り直したかと思うと、また反対車線に入ってくる。

だんだんと近づいてきた車に注意を向け、男はブレーキを踏んで速度を緩めた。

車は蛇行しながら接近してくる。

「ぶつかる!」と思った瞬間、その対向車はぎりぎりでそれ、

すれちがいざまに、きれいな女性が顔を出し、あらん限りの声で叫んだ。

 

「ブタ!」

 

 ふざけるな。男はカッとなって怒鳴り返した。


 「ブス!」

 

 「むちゃくちゃな運転をしているのはどっちなんだ」

男はムカつきながら、アクセルを踏んだ。

そして、急カーブを曲がった途端……

…ブタに衝突した。

 

さて、このお話は何を言いたいのでしょうか。

(明日につづく)