校長室ブログ 今日の東天
高橋尚子さんの思い出
東京オリンピック)・パラリンピック大会組織委員会の新しい12人の女性理事候補の中に、
元マラソン選手の高橋尚子さんの名前を見つけました。
シドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得された高橋さんです。
高橋さんには、直接お会いして、
お話をさせていただいたことがあります。
JOCのお世話で、
熊本地震の後の支援活動の一環として、
私の前任校を訪問されたのでした。
重量挙げの三宅宏美さん、
水泳の萩野公介さんと3人でいらっしゃいました。
体育館に集まった小中学生、地域の方を前に、
スポーツの素晴らしさや競技の大変さ、
五輪の裏話などについて、
トークショーをしていただきました。
萩野さんは、すらーっと背が高く、
見るからに体脂肪率が低そうでした。
色が白くて、肌がきれいでした。
三宅さんは、テレビなどで見るよりも一層小柄なかわいい方で、
こんな小柄な方が120キロのバーベルを頭の上まで持ち上げるとは、信じられませんでした。
腰とか膝とかを故障されるのも無理のない、ハードな競技だと思いました。
帰路に着く前に、日本選手団の赤と白のスーツから着替えられたのですが、
三宅さんはとてもかわいいスカート姿になられて、照れ臭そうにされていました。
萩野さんは白いTシャツ姿になられましたが、その上半身の筋肉にびっくりしました。
「これしか着るのがないんですよ。意味わかんないでしょう」
とか笑っておられました。
(御船中学校 Facebook から)
さて、高橋さんは、金メダリストとしての有名な方ですが、
とてもとても気さくな方で、
控室の校長室でも、コロコロとよく笑っていらっしゃいました。
とても周囲に気を遣われていて、
話題が途切れないように、話をされていました。
帰られる時に萩野さん、三宅さんとご自分のスリッパを膝をついて手に取り、
重ねてスリッパ立てに立てていかれました。
とても恐縮でした。
どの道でも一流の方は、なんか会う人を元気にしていかれるなと感じました。
その高橋尚子さんが
恩師の小出監督から学んだ座右の銘がこの言葉です。
*****
何も咲かない寒い日は、
下へ下へと根を伸ばせ。
やがて大きな花が咲く。
*****
社会人になってマラソンに取り組み始めてからなかなか記録が伸びない時期に、
この言葉を噛みしめながら、厳しい練習を頑張っておられたと聞きます。
寒い日ももう少し。
暖かい春の日がそこまで来ているようです。
生徒の皆さんの伸ばした根が
それぞれの花を咲かすのも、もうすぐでしょう。
(2年生が植えてくれたチューリップです。)
それなら三國の鍋洗いを見せてやろう
昨日に続いて、
「私が一番受けたいココロの授業」という本からの引用・要約のつづきです。
*****
それなら三國の鍋洗いを見せてやろう
(昨日のつづき)
しかし、さすが三國氏は「それなら三國の鍋洗いを見せてやろう」と思い直し、
その日は徹夜で、鍋の取っ手のネジまではずし、キレイに磨き上げたそうです。
翌朝、それを見て村上総料理長は、三國氏に「きれいに洗えたね」と言いました。
そこで、三國氏は、「今日は何をさせていただけますか?」と聞いたところ、
総料理長は「そうだなあ。鍋でも洗ってもらおうか」と言ったそうです。
そしてなんと、このあと三國氏は2年間もの間、鍋洗いをし続けたそうです。
もちろんとても悔しかったと思いますが、
三國氏の偉いところは、その時に「鍋洗いなんて・・・」と手を抜くようなことはせず、
「そんなことを言うなら俺の鍋洗いを見せてやる」と
来る日も来る日も鍋をピカピカに磨き続けたことです。
しかし、さすがに2年もの間、鍋洗いだけでは料理の腕は上がらないと思い、
やめさせてもらう覚悟を決めました。
そんな時、総料理長から呼び出され、
「来月から、スイスの日本大使館公邸の料理長をやってもらおう」と言われました。
これは大変な抜擢で、鍋洗いしかしてなくて、20歳の三國氏がそのような大役につくことを
周囲の人は猛反対しました。(当時、帝国ホテルの厨房には600人以上の料理人がいました。)
その時、村上総料理長は、
「鍋洗い一つ見れば、その人の人格が分かる。
技術は人格の上に成り立つものだから、あいつだったら間違いない」
と言ったそうです。
三國氏は、日頃から
「料理道具がキレイでなければ、気持ちよく料理はできないし、いい料理なんてできない」
という信念を持っていました。
だから、誰よりも鍋をキレイに磨き上げないと気が済まなかったのです。
これはまさに吉田松陰の言う
「至誠(まごころを持って事に当たること)」だと思います。
普段やらなければいけないことを徹底的に、真剣にできる人ってすごいですね。
*****
いかがだったでしょうか。
イチロー選手も毎試合後、時間をかけてグローブの手入れをすると聞いたことがあります。
「鍋洗い一つ見れば、その人の人格が分かる。
技術は人格の上に成り立つものだから、あいつだったら間違いない」
という言葉は素敵ですね。
また、この逸話について、村上総料理長さんが書かれた文章があります。
*****
三國君は私が総料理長だった当時、札幌グランドホテルから帝国ホテルに志願してやってきた。
正社員の枠がなく、パートタイマーで採用したが、やる気があって、よく気がつく男だった。
何にでも一生懸命で、良い意味での「欲」があった。
駐スイス大使への赴任が決まっていた小木曽さんが「専属コックにいい人はいないか」と打診してきたとき、
頭に浮かんだ何人かの候補者の中から、私は三國君を選んだ。
当時、三國君はまだ20歳の若者、しかも帝国ホテルでは鍋や皿を洗う見習いだったため、料理を作ったことがなかった。
では、なぜ私は三國君を推薦したのか。
彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。
戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら、下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。
ちょっとした雑用でも、シェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。
それと、私が認めたのは、塩のふり方だった。
厨房では俗に「塩ふり3年」と言うが、彼は素材に合わせて、じつに巧みに塩をふっていた。
実際に料理を作らせてみなくても、それで腕前のほどが分かるのだ。」
(村上信夫著「帝国ホテル厨房物語」(日経ビジネス人文庫)Wikipediaから
*****
見る人によっては、見えるものなのですね。
料理に限らず、全ての仕事は人格の上に成り立つものだと思います。
私も「自分の◯◯を見せてやろう」というぐらいの気合いを入れて、
目の前の仕事をしようと思いました。
(フレンチの巨匠 三國清三さん)
日本一の下足番になってみろ
下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。
これは、阪急百貨店、宝塚歌劇団・東宝などを創業した実業家、小林一三さんの言葉です。
(ちなみに、先日この欄に登場(?)した松岡修造さんは小林さんのひ孫さんです。)
「下足番」とは、丁稚奉公か何かの一番年下の人がする仕事です。
下足番という仕事を軽んじることは不適当でしょうが、
誰でも務まる、つまらない仕事の代名詞として、ここでは使われているのでしょう。
現在で言えば、コピー取りやお茶くみでしょうか。
モチベーションの上がらない仕事とでも言うのでしょうか。
小林さんは明治時代生まれで、
この言葉もこののように、時代背景を表しているところがありますが、
私は、なぜか気合いの入る言葉に思います。
面白くない仕事、
たいしてやりがいのない仕事と
投げやりになるのではなくて、
どうせやるなら、「日本一」になるぐらいの意気込みでやってみろ、
ということではないでしょうか。
この小林さんの言葉に似た逸話をご紹介します。
「私が一番受けたいココロの授業」という本からの引用・要約です。
*****
それなら三國の鍋洗いを見せてやろう
皆さんは、フランス料理界の第一人者である三國清三(みくにきよみ)氏を知っていますか。
三國氏は、昭和29年に北海道のまずしい漁師の家に生まれました。
そして、昭和44年、15歳の時に北海道でナンバーワンといわれる札幌グランドホテルの厨房に入りました。
三國氏には、料理の才能があったのでしょう。
数年働いただけで、若くして花形シェフになりました。
しかし、三國氏は志が高く料理の頂点を極めようと、当時、日本一のホテルである帝国ホテルに入りました。
帝国ホテルのその当時の総料理長は、村上信夫氏で、フランス料理界では、日本一と言われた方でした。
三國氏は、初日に村上氏から「鍋でも洗ってもらおうか」と言われました。
三國氏にしてみれば、「俺は札幌グランドホテルで人気のシェフだぞ」というプライドもあり
「俺に鍋洗いをさせるとは、どういうことだ」とムカッとなったそうです。
*****
(つづく)
明日の自分は今日の自分が創る
「明日の自分は今日の自分が創る」
これは、本校教育のキーワードです。
本校で過ごす一日一日は、
中学卒業後の自分自身のためにあります。
自分が将来「なりたい自分」になるため、
日々充実した生活をしてほしいと思い、この言葉を選びました。
生徒たちに話をする時も、よく引用して呼びかけています。
この「明日の自分は今日の自分が創る」と似た意味のことを、
有名な哲学者ニーチェが言っていたのを知りました。
ニーチェの言葉とは、
「過去が現在に影響を与えるように、
未来も現在に影響を与える」
というものです。
過去の自分が現在の自分を作っているというのは、
比較的分かりやすいのではないでしょうか。
「お正月休みにお餅を食べすぎたので、休み明けには5キロ太っていた」
というのが、そういうことです。
「過去が現在に影響を与える」
因果応報とでもいうのでしょうか。
「未来も現在に影響を与える」
たとえば、旅の行き先が定まっていなくては、旅の準備はできません。
今の時期でも、北海道に行くのならコートが必要でしょうし、
沖縄に行くのなら、半袖でいいかもしれません。
本校は3年間で「なりたい自分になる なくてはならない人になる」学校です。
では、あなたの「なりたい自分」とは、どんな人なのでしょう。
本校の生徒の皆さんは答えられるでしょう。
今日から3月です。
今年度の、特に3年生にとっては中学生活の総仕上げの時期です。
と同時に、卒業、進学、進級を前に準備する「ゼロ学期」です。
次のジャンプのための助走の時期でもあります。
1年後、5年後、10年後…
未来の自分を具体的に思い描いてみてはどうでしょう。
そうすると、今日という日をどう過ごすかも
明らかになっていくように思えます。
(平成30年度の入学式の日の様子です。もうすぐ3年が経ちます)
渋沢栄一さんの人間観察「視 観 察」
日曜日といえば、「青天を衝く」です。
先日渋沢栄一さんの「蟹穴主義」について触れましたが、
渋沢さんの「視 観 察」という人間観察についての考えが、示唆に富んでいると思いました。
「視 観 察」とは、人を見る際の次の3つのバージョンのことです。
「視る」・・・その人の表面に表れる行動、外見をみる
「観る」・・・その人の行動の裏にある動機をみる
「察る」・・・その人が心の底で何に満足しているのか、喜んでいるのかをみる
私の経験から、思い出す例があります。
(視) ある先輩の先生は、声が大きく、行動は速く、外見も豪放な印象でした。
口癖は「ハッキリ言って〜」で、歯に衣着せぬ発言も多かったと思います。
(観) 私は、先輩の言動の裏に、積極的なリーダーシップを見ていました。
(察) ところが、あるピンチに立った時、強くプレッシャーがかかる場面で、
「ここは何か反論すべきではないか」というところで、その先輩は口をつぐんでいました。
後輩や同僚には強く出る人でも、自分より強いところからのプレッシャーには、
立ち向かわなかったように思えました。
それからそも先輩の言動を見ていると、
思い通りに人が動かない時に、特に強い言動を取ったり、
怒ったりしていることが見えてきました。
積極的なリーダーシップに見えていたものは、
自己中心的な行動の一つの表れだったのかもしれません。
(視)また、別のある上司は、とても細部にこだわる人で、
プリントや文書の一字一句まで、指摘を受ける部下の私たちは「細かいな〜」とちょっと辟易していました。
(観) きっと外に文書が出た時に恥ずかしいんじゃないのかな、
自分の体面を優先されてるようだな、ぐらいに感じていました。
(察) ところがある時、私が初歩的な連絡や準備不足である大失敗をして、
外部からひどく苦情というか批判を受けたことがありました。
その時、その上司はすべて自身の責任として引き受けて詫びてくれて、
できない部下の私の盾となって守ってくれたのです。
他の部下たちと一緒に集められた時、私は厳しく叱責されるのを覚悟していましたが、責められることは一言もありませんでした。
「部署全員で今まで以上に協力して乗り切っていこう」というような話をされて、
私には「次からこうしていこう」という具体的なアドバイスをくれただけでした。
私は、「この上司は組織としてのあり方や部下の気持ちをよく考えてくれているのだな」
と、その上司を見る目が少し変わりました。
しばらくして、私の作った、ある大切な会議の資料に誤字が一字あるのを、
その上司が深夜に携帯電話で教えてくれたことがありました。
翌日の午前に会議は開かれるので、今夜のうちに知らせてくれたのだと思います。
残業を終えて自宅でもう寝ようとしていた私は、少しびっくりしました。
上司は私よりずいぶん前に帰宅されていたからです。
後から聞いたのですが、
資料を持ち帰ってもう一度じっくり見直していたのだそうです。
前回の失敗の時と同じ人たちが出席する会議だったので、
特に会議の主査である私のことを気にかけて(大丈夫かなと心配して)くれたのだと思います。
翌朝、資料の差し替えのために、いつもより2時間ほど早く出勤すると、
程なくその上司もやって来て、手伝ってくれました。
「よかったな、これでもう大丈夫だ」と
作業が終わった時に見せてくれた笑顔は忘れられません。
表面的な部分だけで人のことは分からないものです。
難しいことですが、「察する」ことも心がけていきたいと思います。
これは「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊です。
左から3人目がキリヤマ隊長です。
心に残る1972年のオリンピック後編
昨日に続いて、1972年のオリンピックの思い出です。
この年は2回オリンピックがあったのです。
札幌で冬季オリンピックが開催されました。
冬季オリンピックは当時それほどポピュラーではなかった気がします。
競技について、スキーの滑降や大回転、スピードスケートやフィギュアスケートは
一般に知られていたと思いますが、
リュージュやボブスレーなど、初めて知りました。
いわばソリを使ったスポーツですが、スピードが出て怖そうでした。
特にリュージュは、小学生の私には、楽しいスポーツとはとても思えず、
「趣味の楽しみでやる人は絶対いないだろうな」と思ったのを覚えています。
(これがリュージュ)
そんな中、札幌五輪の前に雰囲気が盛り上がってくる頃、
コカコーラの王冠の裏をめくると(昔はコーラやジュースは瓶で飲んでいました)、
冬季オリンピックの各競技のピクトグラムが出てきて、
それを全競技揃えようと、友達と一生懸命集めていたのを覚えています。
(ネットで調べると画像が見つかりました。こんなモノでした。懐かしいので引用します)
当時日本は冬季オリンピックで、まだ金メダルを獲ったことがありませんでした。
そこで、世界大会で実績のあったスキージャンプに、
金メダルの期待が集まっていました。
主力選手へのインタビューでは、事あるごとに金メダルの期待が話題にされていて、
子ども心に、選手が追い詰められている感がわかる気がしていました。
いよいよ70メートル級ジャンプの試合当日、
「日の丸飛行隊」(この愛称も今振り返るとゼロ戦か何かを連想させて、ちょっと悲壮感が漂いますが)
と呼ばれた、笠谷、今野、青地の3選手が、
金、銀、銅の表彰台を独占するという素晴らしい結果を残したのでした。
私も、特に笠谷選手がジャンプするのを待つ間は、
テレビの前で祈るようにして見ていました。
一人の競技はほんの数秒、
特に踏み切りをして中空へ飛び立つ瞬間などは、ほんの一瞬ですので、こっちまで緊張しました。
ご本人の緊張感は想像もつきません。
2本目に美しい姿勢で着地した瞬間に、
実況のアナウンサーが
「飛んだ、決まった!」と叫びましたが、
私は「ああ、このセリフは前もって考えてきたんだろうな」と思いました。
と同時に、もしジャンプを失敗していたら、なんと言うつもりだったのだろう、準備していたのかな、などと、
しょうもないことを考える小学生でした。
しかし、続く90メートル級の試合では、
2本目に風が止まず、焦れた感じで滑り出した笠谷選手を空中で突風が襲い、
70メートル級に続くメダル獲得はなりませんでした。
たまたまその時に吹いた風で明暗が分かれるとは、仕方ないとはいえ、
厳しい競技です。
ただ、笠谷選手がスタート台で少し長く待たされた時に、
国民の期待などが脳裏をよぎり、
今飛んでしまえば、その重圧や期待に耐えるのもこれで終わりになる、
とご本人が思ったかどうか分かりませんが、
そんな吹っ切れた感じで飛び出していったように思いました。
スポーツの世界は厳しいものです。
笠谷選手の2本目が失敗に終わって、
「あーあ」みたいに言っている人たちの表情を見ると、
小6の私は少し腹が立ちました。
勝手に期待して勝手に失望するのが大衆でしょうが、
笠谷選手ご本人に後悔がないなら、
これで解放されたならいいよな、と思いました。
笠谷さんは後年、「ジャンプは好きだ。けれどオリンピックはきらいだ」と語られているそうです。
(90メートル2本目の後うずくまる笠谷選手。この当時の新聞記事には「惨めな結果に終わり…」とあるそうです)
ただ、それからしばらくは
ある時は校庭の滑り台から、ある時はとび箱の上から飛び降りて、
片膝を曲げて、両腕を水平に広げて着地する練習?に
私たちは没頭したのでした。
心に残る1972年のオリンピック前編
私は牛深東中学校に来て、4年になります。
4年というと、トランプ大統領の任期と重なります。
彼ほどではありませんが、私もわがままを言って、
ずいぶんご迷惑をおかけしたことと思っています。
申し訳ありませんが、あと少しの任期、どうぞよろしくお願いします。
さて、4年と一口に言っても、短いようで長いものです。
4年に1度に行われる予定だった東京オリンピックですが、
会長さんが交代し、いよいよ正念場ですね。
今日は私の心に残っているオリンピックとして、
1972年のミュンヘンオリンピックについて、お話ししたいと思います。
ミュンヘンオリンピック
男子バレーボール 日本対ブルガリア(1972年)
金メダルを期待された全日本男子バレーチームが、
準決勝でブルガリア相手に、セットカウント0-2から、
大逆転した試合です。
当時私は小学6年生でした。
時差の関係で未明までかかって中継されたと記憶しています。
ですから、私は生中継を見ていたのではなく、
翌朝ニュースか何かで見て感動したのだと思います。
当時は「ミュンヘンへの道」という、
この男子バレーチームを描いた番組が、
たしか日曜日7時半から放送されていて、
毎週見ていたと思います。
アニメと実写が一緒になって、
現実の五輪への取り組みと
番組がドキュメントとして同時進行していくという、今思えば画期的な番組でした。
番組の想定通り、本当に金メダルが取れるのかヒヤヒヤドキドキしていたものです。
いぶし銀のようなセッターの猫田選手、ハンサムな嶋岡選手など、実在の選手たちなねまつわるエピソードも描かれていました。
身長2メートルほどの選手たちが、
逆立ちしてコートの周りを何周も回るという練習や
今でもあるのでしょうか、
「一人時間差攻撃」
などというのも出てきて、
まるで巨人の星とかのスポ根アニメのようでした。
(アニメのオープニング)
覚えているのは、エースの1人横田選手が腰が悪いということで、
腰に自転車のタイヤのチューブを巻いて出場しているという話です。
私もその後同じように腰を痛めて自転車のチューブを巻いて生活するようになるとは思ってもいませんでした。
また、そこで登場していた大古選手は、のちにたしかサントリーという実業団チームの監督をされましたが、
東京に出張した時、ホテルの朝食会場で選手たちと食事をされている大古監督に遭遇したこともありました。
皆さん、大きい人たちばっかりでした。
それはさておき、
前回の東京オリンピックで金メダルを取って
「東洋の魔女」(このニックネームからはプロレスマンガを連想するのは私だけでしょうか)
と世界から恐れられた、
全日本女子バレーチームに負けじと、
「なにくそ、今にみておれ」
と歯を食いしばって努力した大男の皆さんをまとめていった、
小柄の松平監督の信念とリーダーシップは、
今でも色褪せないと思います。
決勝で東ドイツを破った全日本(毎日新聞から)
(主題歌に乗せてミュンヘン五輪の様子が見られます)
「努力する人は希望を語り」について
昨日は「なおみ風格」について考えましたが、
野村克也さんは、
「人格や品格を問われる年齢がある」
というような言葉を残されています。
やはり一般的には、年齢相応の風格や品格が求められるのかなと思いました。
野村さんといえば、
今春久しぶりに日本球界に復帰した田中将大投手を、
前回の楽天時代にエースとして育成されましたね。
「マー君、神の子、仏の子」とか名言(?)を残されました。
当時の野村さんは毎試合後に記者団の前で「野村節」でボヤいていました。
選手にやる気を起こさせたり、ある時は相手チームを牽制したり、またある時はマスコミ対策のために、
作戦としてボヤいておられたようです。
私などは自分の努力不足は棚に上げて、
ついついボヤいてしまうことの多い今日この頃ですが、
こんな言葉があります。
「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」
作家・井上靖さんの言葉だそうです。
以前、ある校長室にこの言葉が掲げてあり、
厳しい校長先生なのだどうなと思ったことがありました。
希望と努力は二つで一つなのですね。
前向きに希望を語れる人は、努力している人なのでしょう。
逆に、不満を言ってばかりの人は、
怠けたいのでその理由を延々と並べるのかもしれません。
今日も自戒したいと思います。
「なおみ風格」とは
大坂なおみ選手が、先週の全豪オープンテニスで優勝されましたね。
いつか全米オープンで決勝を争ったセリーヌ選手も破って、
決勝も素人目には、危なげないような強さだったようです。
この決勝について、松岡修造さんがブログで熱く語られています。
(「松岡修造、大坂Vで大興奮「なおみ風格炸裂!」「“なおみテニス”を止められない!」Yahooニュースから引用)
*****
苦しみながらも奪った第1セットについては、
「自分のテニスができないなかでもフットワーク、心の安定感があった。
だからこそ、5-4での最後の2つのポイントは、大坂さん自ら相手のミスを誘ったのです。
これがすごい!」
「相手がなぜミスをしたか? それはブレイディにとって、
相手がNAOMI OSAKAだったから」などと分析。
そして「なおみ風格炸裂!」とつづっている。
*****
この「なおみ風格」というのが面白いですね。
先日もふれましたが、将棋の藤井聡太二冠もすでに強豪としての「風格」があり、
相手にある意味「信用」されているようです。
将棋中継の解説者が、
藤井くんが終盤で時間を使わずに指し手を進めだすと、
「これは詰みがあるんでしょうね。藤井二冠が指してるんですから」
と言ったりします。
プロ野球の世界でも、
王選手が際どいボールを見送ると、
「王が見送ったのだから、ボールだな」と、審判はボールに判定したという、
「王ボール」というものがあったそうです。
これらは、高い技術や強さはもちろんですが、
勝負以外の面でのその人の「風格」も影響しているでしょう。
大坂なおみ選手は試合後の振る舞いや
コート外での言動も
落ち着いていて、少しユーモアもあり、
負かされた相手が反感を持たないような「風格」がついてきましたね。
人は年齢や経験、地位などから
このような「風格」がつくものなのでしょうか。
私はちょっと努力不足を認めざるを得ませんので、
今後気をつけたいと思っているところです。
二つの「為せば成る 為さねば成らぬ」
上杉鷹山
「江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。」(Wikipediaから)
江戸時代としては革新的な財政改革や教育改革などを断行し、米沢藩(現在の山形県)を立て直しました。
実際に藩内の農村を歩いて回り、人々と直接会話を交わして、施政の参考にしたという逸話も多く残っているようです。
また、ケネディ大統領が日本人記者のインタビューで、
「尊敬する日本人」として鷹山を挙げたということで、注目を集めたそうです。
たしか、日産の元社長のカルロス・ゴーンも、鷹山のことを知っていて、
鷹山を引き合いに出して、ゴーン自身も工場を歩き回ってコストカットに取り組んでいたと思います。
上杉鷹山の
「してみせて言って聞かせてさせてみる」
という言葉をアレンジして、
「やってみせ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
と言ったのは、山本五十六です。
この言葉は人に物事を教える際のポイントを端的に言っていて、有名ですね。
他にも、鷹山の詠んだ有名な歌があります。
「為せば成る 為さねば成らぬ」
で始まる歌で、皆さんもお聞きになったことがあるでしょう。
この後は「何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」
と続きます。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
「トライすれば何事も達成できる。達成できないのは、トライしないからだ」
という、藩の改革を断行したリーダーシップの持ち主らしい言葉ですね。
私も長くこの言葉に元気づけられてきたように思います。
しかし、この鷹山の歌には、彼が参考にしたであろう元歌?があります。
それは、
為せば成る 為さねば成らぬ 成る業(わざ)を 成らぬと捨つる 人の儚さ(はかなさ)
という歌で、
詠んだのは戦国時代の武将、武田信玄です。
「トライすれば達成できることを、どうせできないとあきらめてしまう、人のはかなさよ」
という意味でしょうか。
「どうせできないとあきらめてしまう」人間というものを、
「はかない、むなしいものだ」とため息をついているようです。
鷹山の歌の果敢な感じ、断固とした感じに比べると、
信玄の歌は、「なんでみんなそうなのかなあ」「わかんないのかなあ」
という嘆きも伝わってきます。
昔からリーダーは孤独なものだったのでしょう。
今日は、私より一つ年上の天皇陛下のお誕生日です。
一昨年の5月には、半蔵門のところで
車から手を振っておられるお姿を、直接拝見することができました。
心からご健康をお祈りします。
床屋さんに学ぶ「かつがつ」
先週の2月20日は、アントニオ猪木さんの誕生日でした(1943年 今年78歳になられました)。
また、この日は、長嶋茂雄さんの誕生日でもあるそうです(1936年 今年で85歳になられました)。
(ちなみに、昨年惜しまれてお亡くなりになった、志村けんさんも同じ日が誕生日だそうでした。 1950年)
奇しくも各界の国民的なスターが、同じ誕生日とは、少し驚きました。
これもまたちなみに、私と同じ誕生日の有名人には、
TOKIOの松岡くん、深津絵里さん、レスリングの浜口京子さんや元横綱輪島関など、そうそうたる(!)メンバーがおられます。
最近、元プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーさんも同じ誕生日と知って、
びっくりしました。
(ただ、ブッチャーさんは生年に2つの説があるという、謎に満ちた方です。)
なぜこのようなことに話が脱線しているかというと、
私は昨日床屋さんに行きました。
私はふだん、1日に3秒も鏡を見ないのですが、
久しぶり(?)に鏡に映った自分を見たところ、
「髪に白いものが増えたなー」と改めて思い知ったのです。
長嶋さんも猪木さんも高齢になられましたが、笑顔の姿を時々拝見して、
私も歳を取ったけど負けてはいられないなあと思ったところです。
ところで、今日の本題は、その床屋さんでのことです。
床屋さんが髪を切った後に、床に散った私の髪の毛を、きれいに掃いて片付けてしまい、
それから顔そりにかかられるのを見て、
一つの仕事を片付けて、そして次、と段取りをされているのに、
今さらながら気づいたのでした。
もちろん、店の床を清潔に保つ意味もあるでしょうし、
次のお客さんを呼ぶときに、スムーズに行くこともあるでしょう。
髪を切っているお客さんが「やっぱりもうちょっと後を刈り上げて」
などと言うチャンスもあります。
熊本弁では、こういうことを
「かつがつ」片付けると言いますね。
調べてみると(goo辞書)こう書いてありました。
*****
かつ‐がつ【且つ且つ】 の解説[副]
1 不十分ながら成り立つさま。どうにか。ともかく。「やりくりして且つ且つ家計を維持する」
2 とりあえず。急いで。「―里内裏 (さとだいり) つくるべきよし議定あって」〈平家・五〉
3 その時期でないのに、早くも。「我が山の衆徒、―以て承悦す」〈平家・七〉
4 少しずつ。ぼつぼつと。「要法など―伝授しけり」〈沙石集・二〉
*****
もともとは古語で、源氏物語にも用例があるようですが、
熊本弁で使うときの意味は、上記4の「少しずつ」ですね。
熊本弁では、「ばってん」「あとぜき」「武者んよか」「むぞらしか」など、
有名な言葉がたくさんあります。
私は方言にはその地方の庶民の息づかいが聞こえそうで、好きなのですが、
「さでくりきゃあこけた」などと言うと、すごい勢いで転んだ様子が目に浮かびそうです。
さぞ痛かったでしょうね。
私は、この「かつがつ」も好きな熊本弁の一つです。
同じ少しずつという意味の共通語には、「コツコツ」がありますが、
「かつがつ」とは少しニュアンスが違いますね。
「かつがつ」には、「その都度」「こまめに」「怠らず」といったいった意味が含まれているように思います。
校長室の片付けも「かつがつ」しまい(牛深弁)、と思うこの頃です。
「1センチ」なら前に進める
またまた今日も、
元CAのマナー講師、松澤萬紀さんの
「1秒で『気がきく人』がうまくいく」から気になったいい話を紹介します。
(昭和58年ドラマ「スチュワーデス物語」から)
1メートル前に進めなくても、「1センチ」なら前に進める
という話です。
*****
「1センチ」なら前に進める
中学生時代、剣道部に所属していた私は、
顧問の先生に「おまえは、試合をする前
から負けている」
と指摘されたことがありました。
なぜかというと、
審判の「はじめ!」の掛け声の直後に、
無意識に一歩下がるクセがあったからです。
戦う前から対戦相手の気迫にひるみ、
自分から逃げていたのです。
*****
松澤さんは、
「怖くても、一歩前に出なければいけない。
技術ではかなわないのだから、
せめて、気持ちで負けないようにしよう」
そう思うようになってから、少しずつ変わったと言います。
剣道の市の大会で3位の成績を収めるなど、
「一歩だけ前へ出る勇気」が
大きな結果につながるようになったそうです。
*****
「ほんの一歩だけ前へ出る勇気」なら、
誰もができるのではないでしょうか。
(中略)
CA(客室乗務員) の試験に7回も落ちながら、
それでも空を飛ぶことができたのは、
「一歩だけ前へ出る勇気」を持って、
「不合格」になることを怖がらなかったからです。
*****
まず1センチなら私にもできる、
という気持ちになりませんか。
松澤さんの本には、体験談とそこから導かれた
参考になる話がたくさんありました。
(昭和45年ドラマ「アテンションプリーズ」から)
笑顔には、「3つの笑顔」がある
昨日に続いて、元CAのマナー講師、松澤萬紀さんの
「1秒で『気がきく人』がうまくいく」から、ちょっといい話を紹介します。
笑顔には、「3つの笑顔」がある
という話です。
*****
空の上で、500万人以上のお客様と接してきてわかったことがあります。
それは、笑顔には、「3つのタイプ」があるということです。
1 【自然と出る笑顔】
おいしい食事をしているとき、好きな人に会ったとき、友だちに会ったとき、楽しい会話をしているときなどに、自然と出る笑顔。
2【損得でつくられた笑顔】
「買わせよう」という思いが透けて見える接客用の笑顔。
「良く思われよう」という下心を感じさせる笑顔。心がともなっていないつくりものの笑顔。
*****
この2つの笑顔はすぐ思いつきますね。
では、CAさんが大切にしているという、もう一つの笑顔とはどんな笑顔でしょう。
*****
3 【相手の心を救う笑顔】
相手のためにつくる笑顔。1や2のように、「自分の気持ち」のあらわれとしての笑顔ではなく、
「相手の気持ち」を心地良くするための笑顔。
相手のために、たとえ、自分がしんどくてもつくる笑顔。
*****
松澤さんが現役のCAさんの時に、先輩CAから
「つらいときこそ、笑ってね」とアドバイスをもらったそうです。
*****
「松澤さん、CAは、落ち込んでいるときも、疲れているときも、泣きたいときも、笑顔を忘れてはダメ。
なぜなら、CAの笑顔は、お客様のためにあるのだから。
飛行機が揺れているときも、松澤さんのその笑顔を見たら、お客様は怖くなくなるはず」
私は先輩から、「笑顔には、人の心を明るく、やさしく、おだやかにする力がある」ことを教わりました。
笑顔は、自分のためのものではなく、人を元気にしたり、励ましたりするためにある。
そのことに気がついてから、私は、心配事があるときでも、
笑顔でいられるようになったのです。
*****
東中では、
1の「自然と出る笑顔」がたくさんあります。
生徒たち、先生たちの笑顔が絶えることはありません。
2の「損得でつくられた笑顔」については、学校ですので、ほとんど見かけないかと思いますが、どうでしょうか。
では、3の「相手の心を救う笑顔」はどうでしょう。
CAさんのように、お客様の安心のための笑顔、というわけではありませんが、
「人を元気にしたり、励ましたりする」笑顔を意識して生活する人が増えれば、
もっと素晴らしい東中になるかもしれません。
先輩CAさんは「つらいときこそ、笑ってね」と言われたそうですが、
それは難しいことですね。簡単にはできません。
その先輩も新人の頃、その先輩から同じようなアドバイスを受けたのかもしれません。
つらいときに笑顔になるように努力を重ねて、
今度は後輩にアドバイスできるようになったのではないでしょうか。
東中の笑顔も伝統となってつなげていけるといいなと思いました。
(映画「ハッピーフライト」から
「小さいことほど丁寧に、当たり前のことほど真剣に」
1秒で「気がきく人」がうまくいく
という本がここにあります。
著者は松澤萬紀さんというマナー講師の方です。
以前、CAさんの採用試験に8回目の挑戦で合格し、
ANAで12年間CAさんをされたという経歴の持ち主です。
CAさんを経験された方らしい、いろいろなエピソードが掲載されています。
今日はその中から少しご紹介します。
「業界で、ダントツの成果を上げている方々に共通していたのは」と聞くと、
どんな共通点だと思われますか。
松澤さんは、
「ほんの『1秒』という短い時間の中で判断をくだし、
非常に『気がきく習慣』を、いつも実行されているということ」
だとおっしゃっています。
「99%の人がやっていないこと」でも「やろうと思えば誰でも実行できる」、
「たった『1秒』意識することではじめられる習慣」だそうです。
どんなことかその一例を引用してみましょう。
*****
先日、ファーストクラスを担当している友人のCA数人に、
「どんなお客様に魅力を感じるか?」と尋ねたことがあります。
彼女たちは、そろって「同じ答え」を口にしました。
何と答えたと思いますか?
*****
?なんでしょう。
芸能人とか、チップをくれる人(航空機内ではそんなことはないでしょうか)?
*****
正解は、「きちんと、挨拶をしてくださるお客様」です。
たとえば、日本を代表する俳優であった高倉健さん。
CAが「ご搭乗ありがとうございます」と挨拶をしたところ、
高倉健さんは、わざわざ席を立って、
「こちらこそ、ありがとうございます」と丁寧に挨拶を返してくださったそうです。
たった「1秒」の挨拶のために、
席を立ってくださった高倉健さんの誠実さに、
友人のCAは、大きな感動を覚えたといいます。
*****
高倉さんが丁寧な挨拶をされる方だったということは、
以前「高倉健さんの最敬礼」という記事で、このブログでもご紹介しました。
また、
*****
私が、テレビ「はなまるマーケット」(TBS)に、生出演させていただいたとき、
とても印象に残る挨拶をしてくださった出演者がいます。
薬丸裕英さんと、いとうあさこさんです。
私がスタジオに入ったのは、出演の数分前でした。
コマーシャルの間に「松澤さん、入ってください」と声をかけられ、
私はそこではじめて、出演者の方々と対面しました。
コマーシャルが終わるまで30秒ほどしかありませんでしたが、
出演者のみなさんに「松澤と申します。よろしくお願いいたします」と挨拶をしました。
みなさん、笑顔で「よろしくお願いします」と返してくださったのですが、
時間が差し迫っているため、「台本で進行を確認しながら」挨拶を返す方もいらっしゃいました。
生放送ですから、無理もありません。
ところが、薬丸裕英さんと、いとうあさこさんは、心に残る素敵な挨拶を返してくださいました。
お2人の挨拶は、きちんと私に体を向け、私の目を見て、
「こちらこそ、よろしくお願いします」と、
とても丁寧に頭を下げてくださったのです。
私を受け入れてくださっていることが伝わり、気持ちを落ち着かせて出演することができました。
秒単位で進行するテレビの生放送にあって、貴重な「1秒」を私に捧げてくださったことがとても嬉しく、
私はすっかり2人のファンになりました。
*****
こういった話を読むと、
「こちらこそよろしくお願いします」という、
何の変哲もない日常の言葉が、
とても美しい言葉に思えます。
たった1秒ほどの挨拶のお返しですが、いいですね。
松澤さんによると、
ANAでは「小さいことほど丁寧に、当たり前のことほど真剣に」
という言葉を、先輩たちからよく教えてもらったそうです。
「たった1秒」の挨拶こそ、この言葉が当てはまるのだと思いました。
関心がある人は……
マナー講師・松澤萬紀さんが教えてくれた、コーヒーがよりおいしく味わえるコミュニケーションと8つのマナー|コーヒーは人の心と心を近付ける接着剤——コミュニケーション編(前編)
過去の行為の責任の取り方について
熊本県公立学校「心のアンケート」を本校でも実施しました。
「いじめられたことがあるか」という設問の該当は1件で、
この件は、生徒による早めの相談と、先生方の丁寧な対応で解決を見ています。
謝罪などをしてからも、3か月は先生方で目配りをして、
その後いじめが続いていないか、確認をしています。
引き続き、人権を大切にする指導をすべての教育活動の中で取り組んでいきます。
ところで、このようなニュースをご覧になったでしょうか。
読売新聞の記事には、こうあります。
「韓国女子バレーボールの主力選手として、東京五輪での活躍が期待された双子姉妹が、
子供時代のいじめを理由に代表チームから追放された。
厳しい処分には、暴力根絶に取り組む韓国スポーツ界の強い姿勢もある」
韓国バレーの「アイドル」双子姉妹、子供時代のいじめ理由に代表追放
なぜ今になって告発されたのかには、SNSの影響もあるようですし、
当の本人たちも事実を認めているようです。
その他の詳しい経緯は分かりませんが、報道された部分を見ると、
過去のいじめ体験を根拠に代表追放とは、厳しいなと思いました。
Yahoo!ニュースによると、元陸上選手の為末大さんは、
「日本のスポーツ界で同じような事例が出てきたとき、
どのような判断をし、どのようなメッセージを出すかの用意は各協会しておいた方がよさそうです」
と危惧されていると述べられたそうです。
また、韓国でいじめ代表剥奪「過去の過ち」日本との違いという、
日刊スポーツの記事を目にしました。
筆者は、「ソウルで生まれ、19歳で来日した。以降33年間、日本で生活している」盧載鎭さんという方です。
私はこの記事を読んで、考えさせられました。
一部引用します。
*****
日本は「学生の時は不良でした。今は真面目に頑張ってます」
「子供の時に番長やってました。今は生まれ変わりました」「昔はワルだった」などと公言するスポーツマン、芸能人がいて、
過去の過ちから立ち直ったことを美談としてとらえられる傾向がある。
元不良に再生する機会を与え、過去は過去として今の成功に目を向けがちだ。
*****
日本には「水に流す」という慣用句もあります。
一方、韓国では、
*****
同様の過去が明らかになった場合、
まずは当時被害を受けて苦しんだ被害者のことを考える。
いじめられたことが原因で、将来プランが崩れた人もいるだろう。
いまだにトラウマに苦しむ人もいるし、ひどい場合には自らの命を絶つ人もいる。
当時は人格的にも年齢的にも未熟だったにせよ、
何年前だろうが、加害者は社会的制裁を受けるべきで、
再生するのは罰してからと思われる節が強い。
*****
という見方です。
日本では、現在、不祥事を起こしたり(たとえば芸能人の不倫)、
犯罪を犯したり(たとえば薬物乱用)したときは
厳しい処分(解雇や活動停止など)があります。
(ただ、芸人の方などが活動再開後、自らの不祥事を「自虐ネタ」にして笑いを取ろうとするのは、
私は好きではありません。)
過去に遡った場合はどうでしょう。
こういったことを、「国民性の違い」で済ましていいのか、
欧米では同様のケースはどうなのか、
過去の行為の責任の取り方はどうすべきでしょう。
犯罪なら「時効」という要素もありますが。
私には簡単には答えは見つかりません。
盧載鎭さんは、記事の最後にこう書かれています。
*****
双子の李姉妹が日本人ならどうだったか。
「なんでいまさら?」
「よく立派に再生した」
「罪滅ぼしのためにも、東京オリンピックで頑張れ」
という流れになりはしなかっただろうか。
果たして、学生時代の暴力が代表剥奪までつながるだろうか。
賛否はあり、どういう対応が適切かはわからない。
*****
「藤井聡太二冠、高校を自主退学」について
将棋の藤井聡太二冠が卒業を3月に控えて、
自主退学したことが報道されました。
藤井聡太王位が1月末に高校自主退学 「将棋に専念」 秋に決断
藤井くんは、名古屋教育大学附属中学校から、同附属高校に進学されていました。
そもそも、中学3年生の時に鮮烈な連勝記録を打ち立ててデビューしていた彼は、
高校に進学するのか?と言われていたぐらいですので、
やっぱり高校の学業と一流棋士との両立は難しかったのだな、と言えば
それで話は早いのですが…。
私は将棋が好きで、よく観戦するのですが、
藤井さんの強さは並大抵ではないですね。
弱冠18歳で、他の先輩一流棋士に
「どんな将棋だって、相手が藤井くんなら負けたって仕方ないかな」と
思わせているようです。
さて、冒頭のニュースを見て、私は二つの感想を持ちました。
まず、高校の授業がつまんなかったのだろうな、ということです。
藤井くんといえば、
中学校の時に宿題を出す先生に
「授業中に理解しているのに、
なぜ、わざわざ家でまた勉強しなくてはいけないのですか」と質問して、
当の先生が言葉に詰まったというエピソードがある人です。
想像ですが、大学入試に照準を合わせた進学校の授業は、
つまらなかったのではないでしょうか。
本校では、ただ量をこなすだけの課題ではなく、
各自が確認テストの目標を持って家庭学習を行う
「苓南タイム」に取り組んでいるところです。
二つめ。
18歳で、学校を辞めてまで打ち込める道を持って、
確信して進めるのはすごいなということです。
中学高校のクラスメイトや学生生活を離れてまでして、
「一層精進していく所存ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます」
と言い切っていますね。
本来、趣味にする人が多い将棋というボードゲームを
一生の仕事にして大丈夫かなと思ったりしますが、
趣味はパソコンの組み立てだそうですから、
私などとは頭脳の仕組みが違うのでしょうね。
ただ、私が好きな棋士の一人、
糸谷哲郎八段は、
棋士になってから大阪大学に進学し、
同大学院まで卒業して、将棋も八段までになりました。
スーパーな頭脳も、いろいろなタイプがあるのでしょう。
生徒の皆さんも3年後までに、
「一層精進していく所存です」と集中できる道を見つけられるでしょうか。
中学新入学の頃
昨日は、本校の新入生説明会でした。
本校の説明会は、
ほとんどが生徒会と部活キャプテンによる説明です。
「先輩」として恥じないよう、
気合を入れて準備していました。
生徒会としては最初の大きな出番でした。
プレゼンを工夫して、堂々と説明ができました。
まだまだ改善点も見えましたが、
合格点だったと思います。
皆さん、お疲れ様でした。
さて、私の中学新入学は、なんと昭和48年のことです。
どんな時代だったか調べてみると、
オイルショックでトイレットペーパーが不足する騒動があった年でした。
映画では、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」、芸能界では百恵ちゃんたち「花の中3トリオ」が人気だったようです。
その時、中学校に入学して、私が驚いたこと。
まず一つめ、給食がなく、弁当だったこと。
学校でパンを買うこともできました。
毎朝、日直がパンの予約注文を取って、校内の売店に注文票と集めたお金を持って行き、
4時間目が終わったら、売店にパンの入った箱を取りに行っていました。
二つめ、中学校が遠くなったこと。
今、Googleマップで調べてみると、2.3km30分弱と出ます。
小学校に比べると、距離は約4倍になったことになります。
当時は、まだまだ遠かった印象がありました。
40分ぐらいはかけて、帰りは寄り道しながらテクテク歩いていた記憶があります。
三つめ、カバンが重くなりました。
当時は手提げの皮製の「学生カバン」でした。
教科書が厚く重くなったので、取手が手に食い込んでいました。
学生カバン、今でもあるのですね、
このような物です。
また、当時はシャープペンはあったには、ありましたが、
一般的ではなかったので、
小学校では、マンガがプリントされたえんぴつを使っていたのですが、
中学校に入ったら、学生っぽい、かっこいい
MONOを買ってくれたと思います。
ネットを見ると、このような画像がありました。
このようなかっこいい透明のケースに入っていたのです。
あとは、制服が重かったこと、
部活の先輩がとても大人に見えたこと、
定期テストで順位が張り出されてびっくりしたこと、
などなどいろいろありました。
教科書が白黒だけで(最初の数ページはカラーの口絵でした)、文字は小さく、厚くなり、
「数学」などとある教科書を広げるだけで、
頭がよくなったような気がしていたものです。
「中学校の教科書」には、入学前から憧れていて、
6年生の時、近所の高校生の玄関前に、
中学校の国語の教科書が
ヒモでくくって、ちり紙交換?に出されていたのを見つけて、
頼みこんでもらってきて、読んでみた覚えがあります。
その時読んだ教科書に「魔術」という、芥川龍之介の短編小説が載っていました。
ラストのどんでん返しは、よく覚えています。
光村図書のホームページで調べてみたら、
昭和41〜43年に使われていた、中1のこの教科書だということが分かりました。
1年生の皆さんがこの頃学習した、「少年の日の思い出」も載っています。
(テスト勉強頑張ってください)
東小の6年生の皆さんも、お兄さんやお姉さん、
中学生以上の知り合いがいる人は、
どの教科でもいいので、
中学校の教科書をちょっと見せてもらっては、どうでしょう。
今読んでみて、面白そうだなと感じた教科は、
中学校に入っても得意教科になることだと思います。
現在の中1の国語の教科書はこれです。
大きく、カラフルになっています。
午前5時のニュースの言葉から
一昨日、土曜日の午後11時過ぎに、福島県沖で地震がありました。
最大震度6強、ということで、
10年前の震災の時よりも、強い揺れが感じられたという所もあるようです。
被害を受けられた方には心からお見舞い申し上げます。
私は後でSNSで知ったのですが、
一夜明けようとした、
昨日の早朝午前5時のNHKニュースの冒頭、
アナウンサーの方が言われた言葉が話題になっていました。
ほとんど眠れなかった方、
早く目覚めてしまった方、
ともにお疲れのことと思います。
日の出まで、あと1時間ほどになりますけれども、
できるだけ安全な場所で、
少し目を閉じながらでもかまいませんので、
最新の情報をお聞きいただければと思います。
とても優しい言葉だと思いました。
NHKのアナウンサーの方は、
これまでも災害の報道の際に、このような言葉を語りかけておられます。
いわゆるアドリブで話されているのでしょうか。
ニュースの内容とは違った、
前置きの短い言葉ではありますが、
私もこのように言葉が遣えるようになりたいと思いました。
(写真はTwitterから)
渋沢栄一「蟹穴主義」について
今夜からNHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まるそうです。
主人公は新しい一万円札にも肖像が描かれるという、
渋沢栄一さんです。
渋沢栄一さんは、「日本資本主義の父」と言われる方だそうです。
渋沢栄一 記念財団HP を見て、生涯をまとめてみます。
*****
渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、(181年前ですね)
現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。
郷里を離れた栄一は一橋慶喜(のちの十五代将軍)に仕えて実力を発揮し、
次第に認められていきます。
27歳の時には、パリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国を訪れたそうです。
明治維新となり、「商法会所」を静岡に設立、
その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人(「第一国立銀行」の総監役・頭取)として活動をスタートしました。
栄一は株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、
「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
また、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、
1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。
*****
500の企業、600の教育機関、社会公共事業、民間外交に関わるとは、すごい人ですね。
東京ガス、東京海上火災日動、いすず自動車、日本赤十字社、一橋大学などにゆかりがあるようです。
また、説き続けた「道徳経済合一説」とは、
大正5年(1916年)に著した『論語と算盤』に詳しいそうです。
私は中田敦彦さんの「YouTube大学」で知りました。
……幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、
経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、
富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に、自身にも心がけた。
(Wikipedia から)
この「論語と算盤」に出てくるのが
「蟹穴主義」 です。
渋沢さんは、大意、次のように述べられているようです。
「世の中には随分自分の力を過言して、非望を起こす人もあるが、
余り進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、
飛んだ問違を惹き起こすことがある。
私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守るということに心掛けてる」
「これでも今から十年ばかり前に、ぜひ大蔵大臣になってくれだの、
また日本銀行の総裁になってくれだのという、交渉を受けたこともあるが、
自分は明治六年に感ずるところがあって、実業界に穴を掘って這入ったのであるから、
今更その穴を這出すこともできないと思って、固く辞してしまった」
「実際人はその出処進退が大切である。
しかしながら分に安んずるからといって、進取の気象を忘れてしまっては何もならぬ。
つまり分に安んじて進むのがよかろうと思う」
これが、「蟹は自分のからだに合わせて、穴を掘る」
という言葉による、「蟹穴主義」だそうです。
自分ができること、自分の得意なものを極めて、社会に貢献すること。
そしてそのことを自分の喜びとすること。
そういったことを大事にされていたようです。
とはいっても、
渋沢さんの蟹穴hsものすごく大きい穴だったようですが。
不要不急の外出を避けて、部屋にいる時間が長くなると、
ここが自分の蟹穴かな、などと部屋を見回しているところです。
参考資料
名著「失敗の本質」拾い読み
昨日ふれた、名著「失敗の本質」に関して、もう少し述べたいと思います。
「失敗の本質」は日中戦争、太平洋戦争における日本軍の「失敗」について分析している本ですが、
その「本質」を見てみると、現代でも参考になる点があるように思います。
ネット記事の「なぜ、今『失敗の本質』なのか? これから読むための7つのヒント」
は、4年前に書かれていますが、「現代日本に共通する5つの弱点」について、
次のように解説してあります。
(1)あいまいな目的、さらに失敗を方向転換できず破綻する組織
(2)上から下へと「一方通行」の権威主義
(3)リスク管理ができず、人災として被害を拡大させる
(4)現実を直視せず、正しい情報が組織全体に伝達されず悲劇を拡大する
(5)問題の枠組みを新しい視点から理解できない
一庶民の私が思い当たることもいくつかありますが、少し挙げてみます。
(1)について
感染拡大防止とGO TO、2つの相反する目的をいっしょに達成させようとしたのでしょい。
また、GO TO の中止や緊急事態宣言について、もう少し早い判断はできなかったのでしょうか。
(2)について
今言っても仕方ありませんが、1年前のことを思い出すと、
前首相の一声での全国一斉臨時休校、効果とリスクについて情報や意見は検討されたのでしょうか。
また、最近、ある大きな会の長が「会議は長くならないように(女性は)わきまえろ」
という考えであることも分かりました。
「わきまえ」というと大人の対応ですが、
言いたいことはつまり、自分に忖度しない者は使えない、と思っているということでしょうか。
(3)や(4)について
正しく迅速な状況把握と情報収集からの、リスクの予測と管理が必要ではないかと思います。
コロナ禍の中では難しいことも多いと思いますが、
医療現場を一度でも訪れて現状を目の当たりにした政治家が、
何人ぐらいいらっしゃるのでしょう。
「仮定の質問には答えを差し控える」と言ってはいけない気がします。
また、本書では「兵站の軽視、楽観」も指摘されています。
それとは少し違うかもしれませんが、
薬液が残ってしまう、もったいない注射器を大量に準備していたニュースなど、
ワクチンの準備等は大変なお仕事でしょうが、「今分かったのかな」と少し残念な気がします。
(5)については、私たち学校でも大切なことで、学校生活や教育課程など、さまざまな見直しが迫られています。
「目的の達成につながらない目の前の勝利」という言葉も出てきます。
全体のゴールや戦略が重要だということのようです。
学校でも、政治や経済などのせいばかりにせず、
できるだけ先を見通しながら、対応していかねばと考えています。
こちらの解説も読みやすいと思います。
★天草市消費者生活センターからの注意喚起です
ご一読ください。
★天草市教育委員会より
「天草市における
『学校部活動の地域移行』
に関する進捗状況について」のお知らせがありました。
資料を添付しておりますので、ご一読ください。
Let’s go to the library!!
【今週のくまTOMO】ごみ / 鳥
3月16日のくまTOMOの記事から、
「健康へのえいきょう心配 プラスチックごみ」
「KUMAMOTOとりさんぽ 県農業公園 春の合志市を散策」
をピックアップして関連図書を集めました。
鳥の本は、眺めるだけでも楽しいです。
『366日の誕生鳥辞典』は、その鳥にまつわる伝承や由来を元に誕生鳥が制定してあり、自分の誕生日の誕生鳥はどんな鳥か調べたり、自分と似ているところはあるか想像してみたりして楽しめる本です。
御所浦のイベントにあわせて…
御所浦の、恐竜の島博物館で一周年記念イベントが3月15日にあるそうですね。
現在、図書室前の廊下には、
イベントにいらっしゃる小林快次さんの著書
・『ぼくは恐竜探険家!』
・『恐竜時代』、
小林さんも監修者の一人である『NHKスペシャル恐竜超世界IN JAPAN』
と、そのた恐竜関連の本を並べて置いています。
気になる方はぜひ借りてみてください。
「アスクレピオスの杖」
校長先生から紹介された、「アスクレピオスの杖」のお話について振り返ってみたい方、
図書室にある『世界の神々大図鑑』(グラフィオ/編集、金の星社)をご覧ください。
NDC 164 (神話、神話学)
※現在は特集コーナーに置いています。
【くまTOMO】不登校/いじめ
今回のくまTOMOの中から、
「不登校34万人 増加続く」
「いじめも過去最多」
の記事に注目して、関連する本を集めました。
気になる本があったら、ぜひ借りてみてください。
※冬休み特別貸出中!一人5冊まで借りることができます。(返却は1月10日まで)
【くまTOMO】世界遺産/走り方
今回のくまTOMOの中から、下記の記事に注目して、関連本を集めました。
・「親子走り方教室」
・ナスカの地上絵
左側に走り方の本、陸上関連の本、右半分には世界遺産の本を置いています。
☆パラパラとめくってみたり眺めてみたりして、気になる本があったらぜひ借りてみてください。
【くまTOMO】氷
今回のくまTOMOから、「氷の不思議」の記事に関係する本を集めています。
氷に関する本。
『空想科学読本』には、氷を操るキャラクターを科学的に解説しているページがあります。
氷のキャラクター、みなさんは誰が思いつきますか?
【くまTOMO】猫島(湯島)/ノーベル賞
今回のくまTOMOから、湯島の記事とノーベル賞の記事に注目して、関連する本を集めています。
湯島に関する本は、熊本日日新聞社が発行した『猫島ありのまま』がありました。
ノーベル賞に関する本は、ノーベルさんのこと、ノーベル賞を受賞した人々の本を集めて置いています。
(ここの本ももちろん借りることができます)
コラボ給食
今週の給食は、図書とコラボしたメニューでしたね。
火曜日の給食で紹介された『食堂かたつむり』と、
水曜日の給食で紹介された「めぐろのさんま」が読める『落語ものがたり事典』
を廊下の特集コーナーに集めました。
また、「ごはん」に関するお話がたくさん載っている、『つやつやごはん』も一緒に置いています。
物語と食をいっしょに楽しみましょう。
【今週のくまTOMOコーナー】ごはん/感染症
今回のくまTOMOの記事の中から、
「ホテル日航熊本 食育イベント 稲刈り、すし作り」に注目して、[おにぎりの本や和食の本]
そして
「感染症増え最大級の流行」の記事より、[感染症関連の本]
を集めて置いています。
気になったらぜひ借りてみてね。
【今週のくまTOMO】ネットトラブル【記事関連本コーナー】
今回のくまTOMO、「ぷれすけの教えてネット Q オンラインゲーム 注意点は?」の記事に注目!
関連する本を集めています。
ネットで起きやすいトラブルとは・・・?
(このコーナーの本ももちろん借りることができます)
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