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2020年6月の記事一覧

言葉の温度

6/27(土)のYahoo!ニュースで

「ブラジルのジャイル・ボルソナロ(Jair Bolsonaro)大統領は26日、新型コロナウイルスの感染が広がっている間は公共の場でマスクを着用するよう命じた判決を不服として控訴した。」

という記事がありました。

欧米で人前や街中でマスクをする習慣がないのは、口元の表情等が見えないと感情が読めずコミュニケーションがないからとか、不審者に見えるからとか、言われていました。

それでも、このごろのニュース等では、欧米でもマスクをしている人を多く見かけるようになりました。

なのに、この大統領はなぜ、裁判所を相手取ってまでマスクをしないのでしょう?

 

さて、今日は「言葉の温度」についてのお話です。

(同タイトルの韓流ドラマがあるそうですが、今日は私たちが日頃使っている言葉についてのお話です。)

以下、フリーアナウンサーの馬場典子さんの著書『言葉の温度 話し方のプロが大切にしているたった1つのこと』(あさ出版)の書評「アナウンサーが教える、状況に応じた伝え方のコツ」を参考にしています。

馬場さんは、「言葉には“温度”があります」と主張しています。

 

以下、書評からの引用です。

……(馬場さんは)“言葉の温度”は話し手の“心そのもの”。温もりのある言葉が相手の心に寄り添うように、熱い言葉が相手の心に火をつけるように、こちらの心が相手に届き、言葉が相手に伝わるというのです。一方、冷たい言葉は相手の胸に突き刺さってしまうものでもあります。……

 

「ふわふわことば」「ちくちくことば」など、言葉と人権・人間関係や言語環境に関する教材等もありますが、「温度」というたとえを使われているのが、とてもわかりやすく感じられました。

また、馬場さんはこう書かれています。

 

「温度は心の表れ。のはずですが、心だけでは、相手に届くときには冷めてしまって、きちんと伝わらない……なんてこともあります。

言葉の温度は、心を素(もと)にしながら、声のトーンや大きさ・話し方や聞き方・言葉遣い・ニュアンス・間・表情など、コミュニケーションの“総合力”なのです。」

 

私も反省して、「言葉が相手に届くときには冷めてしまった」ということにならないようにしたいと思います。

ここで冒頭のマスクのことにかえりますが、

いくらマスクをしているからといっても(もごもご何を言っているかわからないのは論外ですが)、

声のトーンや眼などマスクで隠れていない部分の表情で、温度を伝えられるようにしたいと思ったところです。

 

坂村真民さん

熊本朝日放送でよく目にしますが、「こどもの詩コンクール」の作品が募集されています。

第一回(平成二年)では、詩人の坂村真民さんが審査をされたそうです。

坂村さんは、熊本県荒尾市のご出身で、ご存知の方も多いと思います。

仏教の影響を受けられた詩人で、愛媛県に坂村真民記念館があります。

「念ずれば花ひらく」という言葉が有名ですね。この書は大型ショッピングセンターの入口に掲げてあったりします。

この言葉は詩の冒頭でして、後はこう続きます。

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

 

『坂村真民一日一言』(致知出版社)という本などから、いくつかの詩を紹介しtrみます。


  美 

うごいているから

うつくしいのだ

 

  願い

花になろう 

実になろう

喜ばれる

人間になろう

 

  風

 ともに

あゆめば

ひかる

 

  ひとりひそかに

深海の真珠のように

ひとりひそかに

自分をつくってゆこう

 
  天才と本物

天才にはそう誰にでもなれないが

本物には

努力次第でなれる 

 

 

私の好きな詩は、これです。進路実現を前にした3年生に贈ったこともあります。

 

花は一瞬にして
咲くのではない。

大地から芽から出て
葉をつくり、

葉を繁らせ、成長して、
つぼみをつくり
花を咲かせ、
実をつくっていく。

花は一瞬にして
咲くのではない。
花は一筋に咲くのだ。

 

一筋に咲くように、道を歩いていきたいものです。

 ↓タップすると本の紹介が見られます。

坂村真民一日一言 人生の詩、一念の言葉

(つづき)ケロちゃん危機一髪!

(「ブタとブス」のお話のつづき)

実は、昨日のお話と同じことを言っているマンガがあります。

以前、中学校の国語の教科書(教育出版)にも載っていたマンガです。

私のおすすめの本「プチ哲学」佐藤雅彦 から引用します。

まず、最初のページ。

次のページはこれです。

これは、枠組み(パラダイム)についてのマンガです。

著者の佐藤さんはこう書かれています。

「私たちは、ある枠の中でものごとを見ています。

例えば、この漫画の右頁(注:最初のページ)では、乱暴者のカエルが、ケロちゃんを池に突き落とそうとしていますが、左頁(注:次のページ)を見ると、彼は落下するリンゴからケロちゃんを救おうとしています。

このように、見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます。

私たちがものを見ている時には、必ずある枠組みからものを見ているということを知っていなくてはいけません。」

 

見る枠組みを広くして、落ちてくるリンゴまで見えるかどうかで、たしかに状況の解釈は変わってしまいますね。

 

昨日のお話ですと、 対向車の女性はいわば親切で「ブタ!」と叫んで危険を教えてくれたのでしょう。

それなのにポルシェの男は、目の前の事実しか見えないですから(それも仕方ないでしょうが)
突然ののしられたと思った。

そこで普通にカッとしてののしり返した。

もし、枠組み(パラダイム)が柔軟な状態だったら、女性の異様な叫び声を聞いて「何かあった」とピンときたかもしれないです。

ののしられたと思ったけれど、実はそれは命がけの警告だったんですね。

 

「パラダイムシフト」と言われますが、ガラッと発想を転換してとらえ直すことも必要かもしれません。

新型コロナウイルスとの「戦い」が「共存」になり、また、当たり前が当たり前でなくなり、逆に当たり前でなかったことが当たり前になるかもしれません。社会でも、学校でも、ですね。

「ブタとブス」のお話(つづく)

 ちょっと品のないタイトルで失礼いたします。

以下の出典からの孫引きで恐縮です。

 

出典: J・バーガー「パラダイムの魔力」 日経BP

むかしむかし、あるところに山荘をもっている男がいた。
毎週土曜日になると愛車のポルシェで自宅から山荘へ向かう。

途中には見通しの悪いカーブやガードレールの無い絶壁など、

危険な箇所がいくつもある。

しかし、男はそんなことは気にしなかった。

車の性能はすばらしいし、運転には自信があるし、

目をつぶっても走れるほど道を良く知っていた。

ある晴れた土曜日の朝、男はいつものようにポルシェを飛ばして、

山荘まで向かう道を走っていた。

その時!反対車線の急カーブの陰から1台の車が、ハンドルを切り損ねたように飛び出してきた。

崖から落ちる~と思った瞬間、道路すれすれに弧を描き、勢い余って反対車線に入り、あわててハンドルを切り直したかと思うと、また反対車線に入ってくる。

だんだんと近づいてきた車に注意を向け、男はブレーキを踏んで速度を緩めた。

車は蛇行しながら接近してくる。

「ぶつかる!」と思った瞬間、その対向車はぎりぎりでそれ、

すれちがいざまに、きれいな女性が顔を出し、あらん限りの声で叫んだ。

 

「ブタ!」

 

 ふざけるな。男はカッとなって怒鳴り返した。


 「ブス!」

 

 「むちゃくちゃな運転をしているのはどっちなんだ」

男はムカつきながら、アクセルを踏んだ。

そして、急カーブを曲がった途端……

…ブタに衝突した。

 

さて、このお話は何を言いたいのでしょうか。

(明日につづく)

格闘技世界一決定戦(1976/6/26)に学ぶ

アントニオ猪木選手はプロレスラー人生の中で、数多くの試合をされたと思いますが、

私はそのうちの3つの試合から、多くを学びました。

その1つが、1976年6月26日の対モハメド・アリ戦です。

「格闘技世界一決定戦」と銘打たれて話題になった試合ですので、

記憶にある方もいらっしゃるかもしれません。

「世紀の凡戦」と言われたり、この頃は真剣勝負として見直されたりと評価は様々です。

私はこの試合を見た当時は、高校1年生でした。

土曜日の午前中に水泳のテストがあって、放課後ダッシュで帰宅し、

緊張しながらテレビの実況中継を観戦したのを覚えています。

私がこの試合から学んだことは、

「死中に活」ということです。

今まで、コブラツイストやバックドロップで闘ってきたプロレスラーが、

なぜかルールでそれらの技を使えなくなったときに、

「ボクサーの腕より長いこの脚でなら、闘えるのではないか」と考えたのがこの試合です。

コブラツイストやバックドロップは使えない、

だから無理だなァと考えるのではなく、

コブラツイストやバックドロップは使えない、

「だからこそ」キックでいってみようと考える。

私は、その活路を開こうという「意地」を学びました。

新型コロナウイルスに対応しなくてはいけない今日、

なんとか活路を開く、その「意地」を私も見習いたいと思っています。