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心に残る1972年のオリンピック後編

昨日に続いて、1972年のオリンピックの思い出です。

この年は2回オリンピックがあったのです。

札幌で冬季オリンピックが開催されました。

 

冬季オリンピックは当時それほどポピュラーではなかった気がします。

競技について、スキーの滑降や大回転、スピードスケートやフィギュアスケートは

一般に知られていたと思いますが、

リュージュやボブスレーなど、初めて知りました。

いわばソリを使ったスポーツですが、スピードが出て怖そうでした。

特にリュージュは、小学生の私には、楽しいスポーツとはとても思えず、

「趣味の楽しみでやる人は絶対いないだろうな」と思ったのを覚えています。

(これがリュージュ)

 

そんな中、札幌五輪の前に雰囲気が盛り上がってくる頃、

コカコーラの王冠の裏をめくると(昔はコーラやジュースは瓶で飲んでいました)、

冬季オリンピックの各競技のピクトグラムが出てきて、

それを全競技揃えようと、友達と一生懸命集めていたのを覚えています。

(ネットで調べると画像が見つかりました。こんなモノでした。懐かしいので引用します)


当時日本は冬季オリンピックで、まだ金メダルを獲ったことがありませんでした。

そこで、世界大会で実績のあったスキージャンプに、

金メダルの期待が集まっていました。

主力選手へのインタビューでは、事あるごとに金メダルの期待が話題にされていて、

子ども心に、選手が追い詰められている感がわかる気がしていました。

 

いよいよ70メートル級ジャンプの試合当日、

「日の丸飛行隊」(この愛称も今振り返るとゼロ戦か何かを連想させて、ちょっと悲壮感が漂いますが)

と呼ばれた、笠谷、今野、青地の3選手が、

金、銀、銅の表彰台を独占するという素晴らしい結果を残したのでした。

 

私も、特に笠谷選手がジャンプするのを待つ間は、

テレビの前で祈るようにして見ていました。

一人の競技はほんの数秒、

特に踏み切りをして中空へ飛び立つ瞬間などは、ほんの一瞬ですので、こっちまで緊張しました。

ご本人の緊張感は想像もつきません。

 

2本目に美しい姿勢で着地した瞬間に、

実況のアナウンサーが

「飛んだ、決まった!」と叫びましたが、

私は「ああ、このセリフは前もって考えてきたんだろうな」と思いました。

と同時に、もしジャンプを失敗していたら、なんと言うつもりだったのだろう、準備していたのかな、などと、

しょうもないことを考える小学生でした。

 

 

しかし、続く90メートル級の試合では、

2本目に風が止まず、焦れた感じで滑り出した笠谷選手を空中で突風が襲い、

70メートル級に続くメダル獲得はなりませんでした。

たまたまその時に吹いた風で明暗が分かれるとは、仕方ないとはいえ、

厳しい競技です。

 

ただ、笠谷選手がスタート台で少し長く待たされた時に、

国民の期待などが脳裏をよぎり、

今飛んでしまえば、その重圧や期待に耐えるのもこれで終わりになる、

とご本人が思ったかどうか分かりませんが、

そんな吹っ切れた感じで飛び出していったように思いました。

スポーツの世界は厳しいものです。

 

笠谷選手の2本目が失敗に終わって、

「あーあ」みたいに言っている人たちの表情を見ると、

小6の私は少し腹が立ちました。

勝手に期待して勝手に失望するのが大衆でしょうが、

笠谷選手ご本人に後悔がないなら、

これで解放されたならいいよな、と思いました。

笠谷さんは後年、「ジャンプは好きだ。けれどオリンピックはきらいだ」と語られているそうです。

 

(90メートル2本目の後うずくまる笠谷選手。この当時の新聞記事には「惨めな結果に終わり…」とあるそうです)

 

ただ、それからしばらくは

ある時は校庭の滑り台から、ある時はとび箱の上から飛び降りて、

片膝を曲げて、両腕を水平に広げて着地する練習?に

私たちは没頭したのでした。