百貨店と世の中について
昨日、このような記事が目に止まりました。
日本百貨店協会によると、99年末にピークの311店あった百貨店の店舗数は、10年末に261店、今年7月末は203店。
8月だけで、昭和期に開店した井筒屋黒崎店(北九州市)や西武大津店(大津市)をはじめ、計8店が閉じた。
百貨店の強みは? 空白県次々、50年ぶり200店割れ(朝日新聞デジタル)」
(写真は同記事から)
全国的に百貨店(デパート)が営業不振で、閉店が相次いでいるという記事です。
百貨店のない「空白県」も山形県、徳島県の2県となったそうです。
熊本県も、今あるのは、は鶴屋百貨店だけでしょうか。
私の小さな時は、鶴屋に加えて、大洋、銀丁がありました。
昭和40年ごろ(!)でしょうか、鶴屋の上の方の階の催事場(?)で「ひょっこりひょうたん島」の人形劇(?)を見た覚えがあります。
銀丁の食堂では、お子様ランチを食べていましたし、ソフトクリームは銀色のソフトクリーム立て?に立てて出てきていました。
かわいい銀丁饅頭も好きでした。
大洋には記念切手のお店のコーナーがあったので、小学生の頃には友達と行っていました。
屋上で50円のラーメンをよく食べていました。
エスカレーターを上ったところに、映画「エルビス・オン・ステージ」のポスターが張ってあったのを覚えているのはなぜでしょう。
屋上といえば、鶴屋の屋上は遊園地だったと思います。
さらに、小学生の頃には岩田屋伊勢丹という都会的なデパートもできました。
当時珍しかったシースルー・エレベーターにびっくりしたものです。
二十歳の時に初めてスリーピースを買ったのは、そこでした。
今では、跡地が SAKURA MACHI Kumamoto になっていますね。
まあ、大昔の話はどうでもいいかもしれませんが、
そうでなくても天草の子供たちには百貨店は馴染みのないものでしょうね。
数年前、ある都市の百貨店に立ち寄ったことがあります。
小学生の頃に親戚に連れていってもらった記憶があった百貨店でした。
その当時は垢抜けた都会のデパートという感じで、
熊本にはない人出で賑わっていました。
フィンガー5の「個人授業」が店内を流れていたのを覚えています。
その百貨店を40年ぶりぐらいに訪れてみました。休日の夕方でした。
デパート名(経営者)は別のものに変わっていました。
建物こそ昔のように、立派で堂々としていましたが、
人影はまばらで、地下の食料品売り場には高そうなフルーツがきれいに並べてありました。
そのほかは、ほとんどお客さんは見当たりません。
特に若いお客さんには会いませんでした。
制服を着た店員さんがぽつぽつと立ち話をしていました。
私が買い物をするように見えなかったのかも知れませんが、
「いらっしゃいませ」ともあんまり言われませんでした。
上の方の階のレストランは閉鎖してあり、代わりに100円ショップが入っていました。
以前、百貨店は、子どもから大人まで、
そこにおしゃれをして着ていく服を買うために、おしゃれして行くところで、
私たち子どもにとっては、おもちゃをおねだりし、屋上で遊ぶところでした。
特別な場所だったと思います。
いつから過去のものになったのでしょう。
そういう私も、ユニクロも無印良品もないと、あんまり買いたいものはありませんでした。
一昔前、一世を風靡したスーパーのダイエーが経営不振になったとき、
「なんでもあるが、ほしいものがない」と言われていたのを思い出しました。
有名百貨店の包装紙がブランド力を発揮し、
「お中元、お歳暮は〇〇百貨店で」と思っていましたが、今もそうなのでしょうか。
なにか寂しい魯迅のような気持ちで、輝いていた頃に見た百貨店を後にしたのでした。
ここで、私が何を言いたいのかといいますと、
そこまで来ているかもしれない、アフターコロナ、withコロナの時代に
学校はどうあるのがいいのか、考えているからです。
学校と時代との「ズレ」が今まで以上に生まれないかな、と考えています。
集団での対面授業、大勢集まっての学校行事や修学旅行。
テーブルクロスもない教室の机での生徒による給食の配膳と食事。
養護の先生はいらっしゃいますが、
何百人も子どもが生活する学校でも、医療スタッフは一人もいません。
この生徒たちが保護者になる頃、学校はどうなっているかな、と思ったことでした。
(外壁にリボンが掛けてあった、おしゃれな岩田屋伊勢丹)